わたしいまめまいしたわ―現代美術にみる自己と他者@国立近代美術館

休日ということもあって恋人とデートとして行ってきた。
http://www.momat.go.jp/Honkan/Self_Other/index.html
内容は結構良かったんだけど、最近多いこういうテーマ展ってのはどうもキュレイターが無理しているとしか思えんのよね。なんというか無理やり自己と他者というお話につなげなくても面白い作品は山ほどあるのと思うんだが。
一番の見所は伝説的な写真集の牛腸茂雄の《SELF AND OTHERS》の展示。写真集用のものとあって大きさはないけど、本物は半端なく高いから見れる機会は貴重かと。安定した露出によってとられたポートレートはどれも時間が止まったような静かさだ。普通のスナップの写真とも、スタジオでのポートレートとも違う不思議な空気が流れているようだ。
他にも写真作品としては須田一政風姿花伝」は対象的にストロボの光が脅迫的な光景を移し、日本の祭りの禍々しさを表現しているようであった。キムスージャというアーティストのビデオ作品も発想は単純ながら面白かった。恋人曰く「儀礼的無関心とはこのことである」という説明は全く持って然り。メキシコ・シティ、カイロ、ラゴス、ロンドンで撮られた雑踏の映像は人間の社会的な行動様式の分かりやすいサンプルである。なんつったてラゴスの子供たちは、棒立ちするアーティストに興味を持ちすぎていて可笑しい。
総じて後半の方が面白かったな。コンセプチャルなものとか自己言及的なものはなんというか美術館で見る価値はないじゃないだろうか。僕の芸術の神様は言ってました「コンセプチュアル・アートは一回までだよ」って。ダントーが言うように、もし知覚不可能な性質が現代芸術にあるとしたら、それらは知覚不可能なんだからわざわざ美術館で見る必要ないよね、実際に。下らないものが美術館に溢れる理由の一部は美学者、哲学者にもある。つまらんものに公的資金を使う美術館を正当化するために使われてきた、戦後の公式の美学規範はいいかげん問い直す必要があるだろう。それこそ、美術品の金銭的な価値とは無縁な学者や本物の芸術家の手によって。