中世スコラ哲学にちょっと入門

とはいっても趣味で読むレベル。たまたま生協でぶらついて見つけたこの本を読了。
普遍論争 近代の源流としての
山内 志朗
4582766307

哲学書房から出された本の平凡社ライブラリーへの収録。加筆があり、さらに付録として中世哲学人名辞典というのがついていてコレがかなり良い。すごく便利。
内容はというと、「普遍論争」ってのは世界史レベルで習うのだけど、そのような単純な図式が中世スコラ哲学の面白さを損なっており、中世において本質的な問題は「代表」に関する理論であったというお話を、歴史実証的、哲学的に初心者にもやさしく書いてある良書。
一般的な理解として「普遍論争」とは、個物をまとめあげるものとして「普遍」が存在するか否かというお話でありまして、これまた形而上学にちょっと足を踏み入れなければこのレベルを理解するのが難しい。まあ世界氏レベルだと、この話はいかに中世哲学が非常にトリビアルかつ権威的であったかの例に出されるだけであるのだが、この認識自体いわゆるルネンサンス時代のフマニストたちが中世哲学や神学への批判として作られたものであるのだという。中世哲学の研究は新たな資料が多く見つかった20世紀において飛躍的に前進した結果、今までの「キリスト教神学を正統化するための御用学門」といった認識は大きく変更せざるを得なかったらしい。
確かに、20世紀の一大哲学(科学)運動である論理実証主義の人々の中には、そのような中世哲学から着想を得たものも多かった。例えば真理条件説で有名なタルスキや論理学者のギーチなど。そして、もともと普遍論争というのは何も神学的な土壌で争われた議論ではなく、どちらかというとアリストテレス形而上学の注解をめぐる、論理学と形而上学の間の争いだったようだ。
「普遍」の問題は素朴に言うと以下のようになるだろう。赤いものっていっぱいあるよね。つまり「赤い」ってのは多くの個物の述語になりえるから、そのような多くの個物の述語になりえる「赤さ」のような共通本性って存在しているの?どうなのって?ほかにも「人間性」とか「馬性」とかって存在するのどうなの?だいたいこんな感じ。
通常、単純な理解だと、そのような普遍的なものが存在するという立場が実在論、そんなものただの名前にすぎないというのが唯名論、いやいや名前がつけられるってことは個物の間に何らかの概念があるんだよってのが概念論、というような分け方がなされてきた。
でも本書を読めば分かるのだが、そのような分類は非常に大雑把で中世哲学の本質を見誤っているらしい。まず第一に、多くの個物の述語になりえるような「普遍」の存在自体は、どの立場も認めているようだ。まあそりゃそうだよね。じゃないと、我々の言語活動が不可能になるから。そして、本当の議論のポイントはその「普遍」というものがどんなものであるかである。
アベラールの唯名論によるとそれは「事態status hominis」といことになる。そして「事態」とは「事物res」ではない。だって「ソクラテスは人間である」という文の述語「人間であること」は何らかの事物を指しているわけではなく、ある事態を指しているのである。なんだか、このへん前期のウィトゲンシュタインの発想に非常に似たようなものを感じるところだ。一方、実在論においてはそのような「事態」を「単独に考察された本性」とか「共通本性」とか呼ぶことになる。
本書では、このような普遍に関する議論の背後に「代表」に関する理論があると読み解く。ここらへんは、かなり話が込み入っておりちょっと簡単には書けないし、理解したとも言い難い。ともあれ、話をこんどは代表の理論に移すと、中世哲学はまるで20世紀の記号論のようなものに見えてくる。「代表」というのは、現代的にはほぼ「記号」といってよいのだが、中世において「代表作用」と「意味作用」は区別されていたようだ。意味作用ってのは、ある語が意味対象を指し示すことであり、代表作用ってのは、ある記号が意味対象を介して、その意味対象が代理するものを指し示すことである(意味対象ってなにっていう難しい問題は置いておいてほしい。文が表現する命題に近いようなもんだろう)。具体的に言うと、「人間は走る」という文の語「人間」を意味論的に理解するときに生じるのが意味作用で、語「人間」が何らかのものの代表としてあるものを指し示すのが代表作用ってことなんだろうか。
まあともあれ、その代表作用には主に三つの種類があり、

  • 質量的代表
  • 形相的代表
    • 単純代表
    • 個体的代表

と分けられる。第一の区別である質量/形相の違いは、現代的には言語もしくは記号の音韻・統語論/意味論の違いと考えてよいだろう。例えば「人間は二音節である」とか「人間は名詞である」といった言葉の使い方が質量的代表であり、「人間は動物である」とか「人間が走っている」とかは形相的代表である。そして後者の形相的代表に関しては、さらに二つの区別があり、それが単純代表と個体的代表である。個体的代表のほうがより分かりやすく、要するに「人間が走っている」という文の語「人間」がある特定の人間(例えばソクラテス)を指すときである。現代の論理学では、このような用法を使うときには∃などの量化記号によって明確にするのだが、中世哲学はそのような量化記号を持たないようだ。一方で、単純代表とは「人間は動物である」というような文に現れるものだが、これは現代の論理学の全称量化である∀として考えてよいのだろうか?どうも違うようだ。単純代表は、任意の、すべての「人間」が「動物である」という意味で使われるのではなく、どうもその語(項辞)によって指し示される普遍的な何かを指していると考えられていたようだ(確かに単純代表を全称量化として考えると、それは単なる意味作用であって、代表作用ではなくなると思われる)。
そしてこの単純代表というややこしいものをめぐって、中世哲学は議論されたというのが本書の話の流れである。その議論については本書では簡単に各立場の説明が述べられるだけで、もう一つ踏み込んだ議論がなされていないのは残念だったが、以上の経緯で中世哲学の玄関に至り、その面白さが分かるというのが本書の魅力であろう。なんだか、まとまりが悪いが以上。