自由意志と真理の概念―決定論の解き方

ここ1、2週間ほど、私は決定論にとりつかれていた。それはまさしく幽霊のように私の頭に住みつき、いろいろな場面で私を混乱させ、知恵熱を発生させるほどには私を疲れさせた。でも今日、恋人と話していてその決定論に対する有効な応え方のようなものが思いつき、ふわーと霧が晴れるような気分がした。また同じような幽霊にとりつかれないように、念のためにここに記すが、以下は私の思いつきであって、哲学的な正統性はたぶん何もない。
話はなぜか、フィクションと真実の違いから始まる。まず問題にすべきは、真理である言説とフィクションである言説を区別することである。真理である言説とは、端的には真理や事実であるが、それをフィクションと区別するポイントは何であろうか。議論は極端な方向からのほうが始めやすい。ラジカルな唯物論者のリチャード・ドーキンスは、我々のコミュニケーションを「ある生物が他の生物の筋肉の力を利用するための手段である」と捉える。この見解は場合によってはおぞましいほど受け入れがたいが、私は何年か生きてきてそれがある程度正しいことを知っているつもりである。この場合、我々のなす言説は大きくわけて三つに分類できる。

  1. 命令
  2. 真である言明
  3. フィクショナルな言明

この分類はさほど良いものではないし、場合によっては論理実証主義時代のカビ臭ささえ感じる。しかしながら、我々がある言説に対して、いかに行動するかという点において、この分類が意義を持つだろうと思う。1は端的に従うか、反抗するかだけであろう。2は真であると信じたならば、我々は自らの行動を変化させる。3は我々の行動を直接的に変化させることはない(ということはつまり、間接的には変化させる可能性はある)。いづれにしても、ドーキンスに従い、我々のコミュニケーションは何らかの形で他の人間を利用するために使用されていると前提としている。
1については異論はないだろう。命令は確かに他の人間を利用するために発せられる。3については微妙なところであるが、フィクショナルな言明も何らかの目的によって発せられる以上、他の人間を利用するためであるとも思われる。しかしながら、それは直接的に相手の行動を命令することとは違い、その言説は直接的な行動の原因にはならない。フィクショナルな物語の出だしとして、「今日は雨が降っている」と言っても、その人に傘を持たせることはできない。しかしながら、フィクショナルな言説全体において相手に何らか効果を与えて、利用することはあるだろう。
重要なのは、2である。真である言明、つまり真実は相手に自由な決定権を与えた上で、相手の行動を指令する。「今日は雨が降っている」という言明が真実であると思うならば、それを聞いたものは傘を持っていこうと思ったり、今日は出かけないでおこうと思ったり、何らかの形で自らの行動を変化させる。逆に言えば、そのような言明を為すことは、相手に自由な決定権を与えたうえで、相手を利用しようとする言明であること他ならない。つまり、真実とは相手に自由に行動していると思わせながら、相手の行動を変化させるような言説であるのだ。
逆に言えば、真実とは常に自由意志によって疑うことが可能なものである。常に従わなければならない命令に真理値を問うことはできない。コンピュータに与えられるプログラムは真理値を持たない。なぜなら、それは常に実行されるだけである。それは強制的に筋肉を作動させること他ならない。もしも、コンピュータが与えられたプログラムを疑うようになったとしたら、それは自由意志、または意識を持ったこととみなして良いだろう。
自由意志とは、ある真実に対して、疑ったり、信じたりして、自らの行動を決定する能力のことである。物心や自我が形成されて、人間は初めて自由意志と真理という概念を手に入れるようだ。自由意志と真理はお互いに関係的な概念であり、一方だけによってその内容を明らかにすることはできない。「兄」という概念が「弟」という概念なしに規定されないように。
以上によって決定論の問題は解かれるような気がする。私は物理的な因果関係の上では決定論が正しいと思っているが、それが真理と自由意志に抵触するものだと思わない。それらの概念は対になる形で観念的に発生しているため、直接的に物理的因果関係と衝突することなく、両立可能であると思われる。
以上で書いたことは、自分でも未だ良く理解したとは思わない。決定論の問題を本気で解いたなどと言うことは、狂気の沙汰のように思われる。しかし、少なくとも私の頭は以前より安心して物を考えられるようになったと思う。たぶん。