読んだけど記録しない本をまとめて(新書中心)

なぜだろうか俺は、存在論的な無駄にオッカムの髭剃りを当てるクセがある。だからブクマもダイアリーも新たなカテゴリーを創出するのをしばしば拒んできた。でも最近は、まあ後で編集しなおせば良いのだからと、カテゴリーを増やす傾向がある。しかしまた俺の中にオッカムが登場して、カテゴリーをそぎ落とすかもしれない。なんにせよ、今回このようなカテゴリーが無いことに逆に驚く。今まではすべてstudiesのカテゴリーに読んだ本の記録をつけてきたが、いい加減自分の専門分野とそれ以外の違いが明確になってきたので、専門分野以外の読書記録についてはこのカテゴリーがあてがわれることになるだろう。しかし、それでもなお何だかカテゴリーを増やすのが負けのように思える俺は形而上学的魂がありすぎるのだろうか?
環境倫理学のすすめ (丸善ライブラリー)
加藤 尚武
4621070347

アマゾンのイメージが無かったので伝わりににくいが、丸善ライブラリーの装丁のおかしさは尋常ではない。なぜにチーター?この新書バブルの時代には全くありえないセンスだ。
とは言え、中身のレベルは最近のカスみたいな新書を全く圧倒するが如くのクオリティである。現実的な倫理学に興味を持つ人(つまり記号とか使ってギャーギャーいう倫理学が嫌いな、もしくは苦手な人)同じく丸善ライブラリー応用倫理学のすすめ (丸善ライブラリー)とあわせて読むべき入門書である。「環境」というこれまた汚染されきった概念を、丁寧に現実的に議論する加藤先生はやはり学者の鑑であると感じた。当時、世にある日本の環境倫理学に関する書物のダメさ加減に辟易してこれを書かれたように思えるが、日本の環境美学と呼ばれるものもそのような気分にしてくれるものしかない。というので、環境について美学をやる人にとってもコレは必読書であろう。
本書の三つの大きな論点は最初にまとめられており、分かりやすい。1自然の生存権の問題、2世代間倫理の問題、3地球全体主義。1は自然や動物などに生存する権利を与えるか否かで、身近な問題としては動物愛護などの話題であり、私もそのような議論には一定納得させられる。場合によってはベジタリアンになってもいいかもしれないと考えるくらいである(しかし肉の美味しさには負けている)。2は子世代たちのために地球環境を保護する義務が我々現代人にあるか無いかという議論だが、この辺はすでに私の想像力を超えている。そりゃ次の子世代までの幸せを考えることは必要だけど、あと100年後の人々に我々が何らかの義務を持つことはちょっと考えにくい。環境倫理学は場合によってはそのような義務さえあるという、非常にハードコアな学問であると気づかされた次第である。3はさらにハードコアな主張であり、地球環境が有限である以上、個人の自由は全体の幸福の配分のために一定制限されなければならないという主張である。グレンラガンを見た人にはわかるだろうが、あの物語のロシウの立場がコレである(この例がどのような人に通じるか謎だが・・・)。しばしば環境保護団体の主張が全体主義的色合いを持っているカンジがしたが、これはただのカンジではなくて環境倫理的な立場を突き詰めれば、実際に全体主義的な主張に至ることが今回分かった。それとともに、全体主義という概念が必然的悪だと思っている自らのポリシーを修正するに至る。確かに地球環境が有限かつ幸福の配分を出来る限り多くの人に行おうとすると、全体主義的な発想がある程度妥当なことは明らかなのだろう。それとも私たちは螺旋力を持って天すら突きぬけ宇宙開発によって環境を拡大して、果ては銀河系の彼方まで行くのがいいのだろうか。
さてアマゾンを覗いたら続編が出ていたことに気づいた。今度読もう。そして丸善ライブラリーのチーターを拝めるので貼っておくとする。
新・環境倫理学のすすめ (丸善ライブラリー)
加藤 尚武
4621053736

お次はこれ
生物と無生物のあいだ (講談社現代新書 1891)
福岡 伸一
4061498916

大大ベストセラーゆえに読んだ方も多いと思うが、少なくとも私は手放しで絶賛できるような本ではなかった。まあ昨今の新書のクオリティを考えるにそれなりにいい本と思うが、サントリー学芸賞というほどなのかは分からない。というか人文系の人々の科学的知識の無さや科学への変なあこがれが出ている気もするが、この辺は俺も少し分かるから書かない。
前半は現代の分子生物学に至る発見を文学的なドキュメンタリー(というかプロジェクトX風)に語りながら説明するというものだ。高校まで理系で生物を先行してきた自分にとっては基本的には知っていることが中心だったが(歴史的なことについては非常に見識を広められた)そんなに目新しくはない。後半は著者自身の研究と本題である「生物とは何か?」という問いを探求することに費やされるが、端的にいって福岡先生は本職の研究においては失敗した結果この本を書いているようだ。しかし転んでもただで起きないというか、その失敗談を生かして「生物とは何か?」という文系の人の琴線にも触れやすい話題を、多少なりとも「文学的」な表現で書いているのだ。しかしながら、その肝心の「生物とは何か?」という問いはそれほど明快な形で述べられることはなく、タイトルから期待していたものは残念ながら得られなかった。
とは言うものこの本の魅力はやはりその語り口であるようにも思われる。さっきはカッコつきで文学的といったが、文学性に乏しい私には判断がつかぬゆえで別に他意はない。しかしながら、福岡先生の文章は非常に体言止めが多くて、場合によっては非常に面白い。というかふきだしてしまいそうになった一節があったから引用しておく。有名なワトソンとクリックがDNAの構造モデルを発見したくだりである。

ラセン状に絡まりあう二つの鎖のそばに小さな矢印が振ってあった。その矢印は互いに逆の方向を示していた。そうなのである。DNAの鎖には化学的に方向性があり、頭と尻尾がある。二重ラセンを構成する二つの鎖は同じ方向を向いているのではない。互いに逆方向を向いて絡まっているのである。シックスナイン。

一体、福岡先生が何を意図をしてこのような体言止めをしたのか分からない。少なくとも私は笑うとこなのかな、って思ったが、もしかして英語ではこのような逆走する構造をシックスナインと言うだけで、私のマインドが中学生並みなのかもしれない。これ以外にも妙な体言止めがあったように思われる。
しかしなんにしろ、この本が日本では少ないポピュラーサイエンス的な良著であるのは間違いないと思う。読んで面白かったかと聞かれれば面白かったと答えるだろう。タイトルから期待していたものとは違ったけど。
物理学と神 (集英社新書)
池内 了
4087201740

次もまたサイエンスと人文科学を繋ぐような本ではあるが、これもタイトルから期待するようなものではなく、ただ物理学の歴史の入門書として読むくらいのものであった。というか何だか企画倒れのような気がする。それぞれの時代の物理学が描く理論と神の関係を議論するのだが、そこで言われる神というのは別に神学的な神でも民衆が思い描いていた神という表象ではなく、著者が自身の頭の中で思弁的に描く神だからだ。別に神の話とか関係ないじゃんと思われるところが節々であったが、まあ物理学の歴史をかじる程度の読書にはなるが、それなら他にも良さそうな本があると思う。
全体的に、否定的な読書記録になったが、なんというか新書ってのに既に飽き飽きとしているのかもしれない。よっぽどの評判が無い限り新書なんて読まないほうが身のためなのかもしれない。