Stephen Davies‘Music’in The Oxford Handbook Of Aesthetics

昨日の続き
The Oxford Handbook Of Aesthetics (Oxford Handbooks Series)
Jerrold Levinson
0199279454

11音楽における表現性(Expressiveness in Music)

expressivenessを「表現性」と訳すべきがどうかは非常に悩むところである。定訳ではあるのだが、音楽の場合ではexpressionというと「表情」というニュアンスが強いからである。ここで実際に議論されるのも「情動の表現」(expressive of emotion)である。「表現」という言葉は美学史的には、必ずしも作家の心を作品に表すという意味で使われてきたわけではないが、グッドマンの「表現」概念を別にすると、往々にして英米圏で使われるexpressivenessは情動の表出という意味が強いように思われる。
Daviesも言うとおり音楽の情動的な表現性は、この分野での最大の論点である。問題自体は非常に単純だが、答えるのは困難である。我々は音楽を、情動の表現として経験する。しかし、音楽は感情のあるものではない。では、音楽の表現性はいったいな何なんだ?
以下、議論を大体の方向性によって分類して要約する。分類の名前は基本的に私が勝手につけた。

形式主義

最初のアプローチは、端的に音楽が実際に情動の表現であることを否定する。これはハンスリックに由来する見方である(Budd1985;Davies1994も参照せよ)。ハンスリックは情動を信念や欲求などの志向的内容を持つ認知と関わるものと考えた。この情動の説明は実際に現代にも通用するものであるので、そこからそのような志向的内容を持たない音楽が情動を表現することはないという説明は説得力がある。ある音楽が悲しいと考えるとき、我々はどのような信念や欲求を持っていると言えるのだろうか?ハンスリックは積極的な説明においては、音楽は形式に内在的な美によって我々をひきつけると主張した。これは現代までつながる音楽の表現性に関する形式主義的立場である。

非還元説、もしくはメタファー説

もう一つの素朴なアプローチは、音楽の表現性は還元できない独特なもの(sui generis)だというものだ。しかし、これはなぜ我々がそのような言葉を音楽に適用するかについて説明しない限り受け入れられない。また、Goodman(1968);Scruton(1997)など、音楽の表現性を非還元的なメタファーとして理解するアプローチもある。これも、その表現の用語を説明できない点において受け入れることができない。また、音楽の表現性を音楽分析の専門的性質へと還元する試みもありうる。しかし、それもなぜその表現の用語が情動的なものであるかを説明できない。

言語類比説、連想説、類似説

これらの問題に対する第一の提案は、音楽的な発話は情動についての言語的言明のようなものと考えることである。その場合、音楽自身が感情を持っている必要はないが、それは感情を持つ生き物によって作られる必要がある。Coker(1972)やLerdahl and Jackendoff(1983)は音楽を言語と類比的なものとして、その体系的なルールを明らかにしようとする。
しかし、音楽には意味論を生じさせるような統語論的な規則がないことは明らかである。よって、この言語類比説の代替案は、音楽の意味を体系的にというよりも連想的であるものとして考える。つまり、偶然的、慣習的なやり方で、音楽的ジェスチャーは情動と関連するようになる。単純に言うと、悲しい場面で何度も使われる音楽は悲しさを連想させるというものだ。しかし、この説明では音楽の情動との繋がりを恣意的なものとして考えることになる。これは実際の我々の経験に合致したものではない。我々は表現された情動を音楽のうちに経験するのだから。
この音楽は情動をシンボル化しているという理論は、それが恣意的なものではなくアイコン的なシンボルであるのならば、説得的である。つまり、音楽と情動の間には何らかの類似性があると考えるわけだ(Langer 1942; Goodman 1968)。例えば、音楽は声の表現的なイントネーションに(Kivy 1989)、弁論のレトリックなジェスチャーに(Sharpe 2000)、似ていると言われてきた。
類似説の問題点は、いかに類似性がその音楽が表現的であるという判断を認めるかを説明することにある。人間の行動が情動を表現するという場合は、彼がその情動を感じ、そしてその現象*1が情動のもので、適切な信念と欲求に結びついているときに限る。
しかし、音楽の場合はどうであろうか?

表現説

表現説は、我々は音楽の表現性を、作曲の過程で放出された感情の残余として経験する。要するに、音楽家の感情の発露として生まれた作品を媒介して、情動的な表現は伝わるということ。しかしながら、作曲家の情動と彼が書いた作品の間の関連は、明らかに発散的な種類のものではない。というか、作曲家が情動を作品の中で表現しようとするならば、彼は音楽の表現性を借用することによってそうする。つまり、作品を通じた情動の発散に先立って、音楽の表現性が存在するはずである。さらなる表現説への批判はTormey(1971);Davies(1994);Kivy(1989);Goldman(1995)

喚起説

喚起説(the arousal theory)は、音楽の情動的な表現性を因果的な力として説明する(Matravers 1998)。しかし、音楽の表現性を知覚するリスナーが、避けがたくそれによって喚起されているかは明らかではない。そしてなによりも、我々が音楽を表現的であると思うことによって、その反応が起こるのであって、喚起説はその逆を言っているのに過ぎない。

再現説、想像説

また音楽は情動を再現する(represents)とも考えられる。しかし、器楽音楽がその再現的な力が制限されていることは、哲学者の間で同意されている(Kivy 1984; Walton 1990; Davies 1994; Budd 1995; Scruton 1997)。だが、音楽が言葉や演劇、映画のようなものと同時にある場合はその限りではない。例えば、弦楽器の規則的なリズムは、演劇において恋人の心臓のビートを再現できる。この見方を推し進めると、たとえ器楽音楽においても、リスナーは音楽をペルソナの情動的生に関わる物語を現前させると想像すると、示唆されるだろう。そのようなアイデアはBudd(1985);Walton(1990);Ridley(1995);Robinson(1997)など。
Levinson(1996)は音楽の表現性を以下のように定義する。適切に経験の積んだリスナーによって、想像された因子としてだが、音楽のペルソナによる情動の表現として、音楽が聞かれるときに限って、あるパッセージは情動の表現である。
これらに対して、Daviesは音楽の表現性と再現性を合わせて考えるべきではないと主張している。例えば、オペラの音楽においてキャラクターの情動を再現するとき、そのキャラクターが悲しいと言ったり、泣いたりするときにその音楽において悲しさは表現される。つまり、情動の再現より先に音楽による情動の表現があると考えているようだ。

外観説

これらと、まったく違った考え方は、情動の表現は直接的に情動の経験と結びついているという主張を拒否する。例えば、バセットハウンドは悲しげな顔をしているし、ある木は苦しんでいるように見える。これは、バセットハウンドが実際に悲しさを感じていたり、その木が苦しみを経験していたりすることを意味しない。それは判断されるそれらの見かけの特徴である。ここから、我々が「音楽が悲しい」というとき、我々はいかなる感じられた情動の表現についても言及していないが、その音楽によって表された情動の性格に言及していると、主張できる。Daviesは、このような説を外観説(the contour theory)と呼ぶ。そしてKivy(1989)やDavies(1994)は、音楽の表現性は文字通りに、客観的にその音楽に所属するものだと主張する。
この外観説は二つの主要な批判に晒される。一つは、音楽の動きと情動の振る舞いの間のアナロジーを否定する。もう一つは、外観説では我々が音楽の表現性に与える重要さや、それによって情動的な反応が引き起こされることを説明できないというものだ。Goldman(1995);Levinson(1996,1997);Matravers(1998)を参照せよ。

12音楽の表現性への情動的反応(Emotional Reactions to Music's Expressiveness)

基本的に11の議論の派生的な問題と思われるがDaviesは、表現とそれに対する反応を分けて考えている。要するに、楽しい音楽を聞くと楽しくなり、悲しい音楽を聞くと悲しくなるという一般的な事実に対する疑問である。
普通、悲しいという情動を持つとき、不幸や後悔に関する状況や物事についての信念を持っている。しかし、音楽によって悲しくなるときは、そのような情動の対象はない。また、人が悲しさに直面するとき、適切な反応は普通、哀れみや同情であるが、音楽に対してそのように反応しない。
Kivy(1988,1989)やSharpe(2000)は、リスナーが音楽の表現する否定的情動に同調する傾向があることを否定することによって、この問題を切り捨てる。しかし、多くの論者(Levinson 1990;Davies 1994; Goldman 1955)は、他の人の言葉を受け入れるのと同様に、彼ら自身の反応に訴えて、この立場を拒絶する。
一つの解答は、すべての情動が志向的対象(intentional object)に関わるのではないと、提案することである。上記の外観説に従えば、「悲しさ」の見かけは人に悲哀を感じさせる必要はないし、その見かけの持つ対象が実際に「悲しい」必要もない。もしそれでもやはり人がそれらの状況の下で情動を露見しているならば、それは反映している(mirroring)ものであるだろう(Davies 1994)。

13音楽への否定的反応の難問(The Difficulty of Negative Responses to Music)

11と12の議論に対する立場のとり方から、この問題は派生する。いわゆる「悲劇の快のパラドクス」とか「デュボス問題」として知られている美学の問題の音楽版である。すなわち、もし悲しい音楽がときおり、リスナーに悲しい反応を呼びこすならば、何ゆえ我々はそのような特徴の音楽を価値付け、求めるのだろうか?この音楽に対する否定的反応がありうることを認めた上で、二つの理由を主張しうる。(もちろん、そのような反応などないという立場、極端な形式主義など、の場合はこれは擬似問題でしかない。Daviesはそのような反応を認めたうえで、この疑問に答えている。)
第一に、その経験が否定的な要素を持っているとしても、肯定的なものによって覆されうる。つまり、たとえ悲しい音楽であっても、それを上回る肯定的な経験が得られれば良いだけなのである。もちろん、この返答は「楽しい」という肯定的要素だけの作品が「悲しい」のような否定的作品を持つものより、常に価値があることになってしまうという反論がありうる。それに対して、Levinson(1990)は音楽の利点の少なくともいくつかは否定的な反応を生み出すものであると反論する。例えば、我々の悲しいという反応は、普通の文脈では得がたい物事として、堪能され吟味される。
また第二の理由も、この議論の延長線上にある。つまり、確かに音楽には否定的な反応を持つものがあるとしても、しばしばそれは全体にとって不可欠なものである。我々は全体的に良いものを得るために、部分的に否定的なものを受け入れる。子供の養育、人との関係、自己実現などにおいて。これ議論についてはWalton(1990);Davies(1994)を参照せよ。

14理解のあるリスナー(The Understanding Listener)

いわゆる「音楽を分かっている」人ってどういうこと?とか、音楽の聴取の能力に関する議論。
楽家演奏家でなくとも、ほとんどの人は音楽を聴く能力がある。ある様式やジャンルのルールを分節化できなくとも、聞いて判断ができたりもするし、音楽を聴く能力は演奏する能力や音楽理論音楽学の専門用語に精通する必要もない(Davies 1994)。しかしやはり、音楽に対する理解は、音楽の楽器の性格とその演奏方法、音楽理論の習得によって助長され、促進されるものだろう。
この点に関して、Levinson(1997)は「連鎖主義(concatenationism)」と呼ばれる、論争的な理論を提案した。それによれば、リスナーはある瞬間に聞いたものと、その少し先と後の出来事の関係と連結に注意すれば、適切にその音楽を理解して、評価できることになる。つまり、音楽の大きなスケールの構造の知覚は、リスナーの音楽の了解のために必要とされない。というのは、大きなスケールへの関心は、知的なものであり、感覚的ではなく、その快は瞬間のものに劣るからだ。この立場への反論はLevinson(1999)を参照せよ。

15音楽の深遠さ(Musical Profundity)

器楽音楽とその深遠さのお話。興味がないから割愛。

16音楽の価値(The Value of Music)

これも器楽音楽の価値に関する話だから、基本的に興味がない。器楽音楽はいかなる命題的内容を持たないから、価値があるという、逆説的な音楽の価値付けの話。

17音楽と言葉(Music and Words)

15、16で議論されるクラシックの器楽音楽の価値はその超然性にあるという主張に対する批判として、言葉のある音楽の話。特にオペラについての議論が言及されている。

コメントと書誌情報

前回が主に音楽とは何か、音楽作品とは何か、その存在論と正統性についてという、音楽の対象の話だとすると、今回の1から13は音楽の性質としての情動の話が中心。それと音楽聴取能力と音楽の価値の話がおまけとして付いている感じである。やはり情動の問題は音楽の哲学の中での中心的な議論であるようだ。
Daviesは11、12、13と音楽と情動の関係の問題を、表現、反応、否定的な反応と価値、という三つに分けて議論しているが、これらは相互に関係しあっているのでかなり複雑だ。私も表現と反応の問題を分離して議論するべきだと思うが(否定的な反応の問題は情動的反応が現実的なものとして起こることが前提としたときの派生的なものだと思う)、情動を表現という言葉によって議論するのは結構ミスリーディングであると思われる。
前述したとおり、「表現(expression)」という美学上の概念は結構人によって使い方が異なっている。作者の内的なものを作品に具現化するという意味は近代以降に一般的になったもので、美学史全体からみれば決して主流のものではない。表現の本領は、再現が目に見えるものを目に見えるものに置き換えるのと対比的に、無形のものを有形化することである。*2
そのような観点から見ると、音楽の表現が情動に限られるわけでもないし、その情動が作家の有したものであると考える必要もない。音楽における表現性という問題は、音楽における情動的なものよりも大きな問題である。
表現という話を抜きにして、音楽と情動の関係について考えてみると、おそらく三つ関係の可能性を指摘できる。それは音楽の創造、音楽それ自体、音楽の聴取(およびそれへの反応)の三つである。音楽の創造において作曲家の情動がなんらかの役割を果たすことはあるだろうし、音楽それ自体に情動的な性質があることもあるだろうし、音楽の聴取においてリスナーが情動を感じることもあるだろう。情動的な表現性という観点を取ると、近代的な表現概念に由来するバイアスによって、これらの三つの関係を一つの連鎖としてみなしてしまう危険がある。しかし、これら三つの関係は独立して議論できるし、そうすべきである。その上で、作曲家は自らの情動を音楽それ自体に表現するのか、または音楽それ自体にある情動的な性質は、リスナーに現実の情動を引き起こすかのか、といった三つの関係の間のつながりを議論するべきだろう。
目下のところ私の興味範囲は音楽の美的判断にあるので、音楽それ自体にある情動性と、それがリスナーに与える効果であって、創造の過程における情動には興味はない。しかしながら、この三つの区別をした上で各論者の理論を分類整理する必要があるだろう。
さらにこの点で、前回扱った「音楽の定義」と「音楽作品の存在論」に対する立場が「音楽それ自体の情動性」と「音楽がリスナーに与える反応、効果」という議論に対して、どのように影響するかを明らかにする必要がある。おそらく自然科学与える「音楽の定義」は、「音楽それ自体の情動性」と「音楽がリスナーに与える反応、効果」に関する強力な示唆を与えるように思える。そして「音楽作品の存在論」は、「音楽それ自体の情動性」において、音楽作品の中の情動的表現にレレバントなものを規定するように思われる。

  • Budd, M. (1985). Music and the Emotion: The Philosophical Theories. London: Routledge & Kegan Paul
  • ――(1995). The Values of Art: Picture, Poetry, and Music. London: Allen Lane/Peguin Press.-
  • Davies, S. (1994). Musical Meaning and Expression. Ithaca, NY: Cornell University Press.
  • Goodman, N. (1968). Languages of Art. Indianapolis: Bobbs-Merrill.
  • Scruton, R. (1997). The Aesthetics of Music. Oxford: Oxford University Press.
  • Coker, W. (1972). Music and Meaning: A Theoretical Introduction to Musical Aesthetics. New York: Free Press.
  • Lerdahl, F. and Jackendoff, R. (1983). A Generative Theory of Tonal Grammar. Cambridge, Mass.:MIT Press.
  • Langer, S. K. (1942). Philosopy in a New Key. Cambridge, Mass.: Harvard University Press.
  • Kivy, P. (1984). Sound and Semblance: Reflections on Musical Representation. Princeton: Princeton University Press.
  • ――(1989). Sound Sentiment. Philadelphia: Temple University Press.
  • Goldman, A. H. (1995). ‘Emotion in Music (A Postscript)’. Journal of Aesthetics and Art Criticism 53:59-69
  • Sharpe, R. A. (2000). Music and Humanism. Oxford: Oxford University Press.
  • Tormey, A. (1971). The Concept of Expression. Princeton: Princeton University Press.
  • Matravers, D. (1998). Art and Emotion. Oxford: Oxford University Press.
  • Walton, K. L. (1990). Mimesis as Make-Believe: On the Foundations of the Representational Arts. Cambridge, Mass.:Harvard University Press.
  • Robinson, J. (ed.) (1997). Music and Meaning. Ithaca, NY: Cornell University Press.
  • Levinson, J. (1996). The Pleasure of Aesthetics. Ithaca, NY: Cornell University Press.
  • ――(1997). Music in the Moment. Ithaca, NY: Cornell University Press.
  • ――et al. (1999). ‘Symposium on Music in the Moment’. Music Perception 16:463-94

*1:phenomenologyは現象学ではあるが、ologyが付く英語はしばしばその学問自体ではなく、その学問の対象を指す言葉に変化する。イーグルトンがideologyについてそう言っている。最近の英米圏で使われるphenomenologyはほとんど現象学の対象って意味での現象を指しているようだ。

*2:佐々木健一『美学辞典』を参照せよ。