音楽作品の存在論のための音楽の存在形態の分類をどうするかに関するメモ

というか単に英語に比べて、日本語の音楽に関する語彙の貧弱さをどうにかするために、なんとか自分なりにまとめてみる。
とりあえず理念的な意味での現代の音楽の存在形態として

作曲(composition)-演奏解釈(interpretation)-上演(performance)-録音(recording)-再生(playing)

というのが考えられる。
基本的に原初形態の音楽はこれらすべて同時に行われたと考えられる(もちろん録音という概念はなかっただろうが)。
ライブの音楽の場合は、最終的な存在形態が上演のレベルで終わる。そのときperformer=playerだ。
実際に、これらすべての過程を明示的に分離して述べられるのは、クラシックのCDの個人での聴取とかの場合くらいであろう。それぞれの存在形態とそれを生み出す媒介者を挙げると。

楽譜・作曲家(composition)-指揮・指揮者(interpretation)-音・演奏家(performance)-録音物・エンジニア(recording)-音・リスナー(playing)

performanceの音とplayingの音は、その環境によって変化する。これを限りなく一致させようという思想がハイ・ファイ(原音忠実)なんであろう。
ジャズ以外の大方のポピュラー音楽は、録音技術と密接に関わり、スタジオで作られるので、recordingより左のものが渾然一体となっているように思われる。無理やり図示すると。

バンド・プロデューサー(composition・interpretation・performance)-エンジニア・プロデューサー(recording)-リスナー(playing)

いわゆる編集作業は実際には録音の後に行われるが、理念的にはcomposition・interpretation・performanceの過程と考えていいだろう。つまりこの場合の録音ってのはマスターが出来上がるカンパケの状態だ。
ジャズなんかの上演のための音楽だと

作曲家(composition)-バンド・ソリスト(interpretation・performance)-エンジニア(recording)-リスナー(playing)

即興はもちろん作曲行為であるが、とりあえず広義のinterpretationとして分断してみた。フリージャズの要素が濃くなればなるほど、compositionとinterpretation・performanceの境界が曖昧になる。
音楽作品の存在論は、そのジャンルごとで、どの存在形態に正統性を与えるかによって変化すると思われる。
ごく簡単に言うと、クラシックはcompositionで、ロック・ポップはrecording、ジャズは理念的にはinterpretation・performanceだが、現実的にはrecording、録音技術と関わりが薄い民族音楽であるならばperformance=playing(もちろん、その民族音楽に作品概念があるならば)。
ただし、これは作品の存在論的な正統性であって、その音楽の美的な正統性であるならば、話は別である。ロック・ポップはrecordingと共にperformanceにもその美的な正統性を与えるし、クラブ・ミュージックは作品の存在論的な正統性はrecordingにあるが、美的な正統性はむしろplayingにある。一方、クラシックは存在論的に美的にもcompositionに正統性があるように思われる。
実際問題として、音楽作品の存在論っていう問題は哲学者好みのものではあるが、作品という概念に執着しない音楽ジャンル・文化によってはそれほど問題ではない。実際の録音とはまったく異なった演奏をしても、美的に満足が得られればそれでいいってだけのことが多い。