Frank Sibley‘Aesthetic and Non-aesthetic'(1965)

Aesthetic Conceptsと同じく美的/非美的判断、美的/非美的質、美的/非美的記述、美的/非美的概念の区別が行われる。これらの区別は基本的に通常の視覚、聴覚以上の感受性のようなものを要求するか、否かにおいて区別される。最初、この論文のタイトルを見て、これは美的/非美的の区別に関する議論だと思ったけど、どうやらシブリーにとってはその区別はある程度自明なようで「その区別を擁護する必要はない…そのような区別を否定することは、美学のほとんど多くの問題を議論することを不可能とするもの」だと言っている。シブリーは基本的に一貫して、その識別に感受性を要求するか、否かという基準において美的/非美的の区別為しているようだ。もちろん、この美的概念の感受性による定義はその循環論的な説明に問題があり、美的/非美的をいかに区別することについて、ピーター・キヴィ、テッド・コーエンやビアズリーなど他の美学者によって批判、議論がある。ただし、この論文での論点はそのような区別をいかにするかではなく、美的判断、質、記述、概念と非美的判断、質、記述、概念の間の関係についてである。
本題に入る前に、シブリーは彼が「評決的verdict」と呼ぶ判断を議論から除外する。Aesthetic Conceptsと同様、このようなシブリーの評価的な判断ではなく、実体的な判断への焦点化はその後の英米美学の方向性を決定付けることになった。

美的知覚

美的/非美的の関係を考察する前に、まずシブリーは美的判断と美的知覚の関係について予備的な考察をする。端的に言うと、美的知覚が為されない限り、つまり実際にあるものが優美であるとか、繊細であるとかを知覚すること無しに、美的判断は成立しないということだ。ある一定のルールに従ったり、他人が言っていることを鵜呑みにして従ったりして、「この花は優美である」と言うことは、「美的質の帰属」もしくは「美的言明」であっても、美的判断ではない。シブリーが言うには、そのような知覚が介在しない美的性質の帰属のようなものは、視覚に障害がある人が推定して何かを緑であると判断したり、ジョークの可笑しさを理解しない人が他人に合わせて笑ったりするようなものである。
この美的判断の条件として美的知覚を要求することは、一見すると厳しすぎるかもしれない。例えば、実際の判断対象を知覚することなく「これこれしかじかの○○は美しい」というふうに、記述に従ってある性質を帰属することは、普通の意味では美的な判断をしているとも言えるだろう。しかし、そのような場合があるとしても、ある記述に従って性質を推測して帰属することと、実際の対象を知覚して帰属することには歴然と差があるだろう。そして美学が伝統的に扱ってきた美的判断とは後者であることは、カントの趣味判断論などを考えれば、明らかである。

いくつかの依存関係

次にシブリーは美的性質と非美的性質の関係について言及する。それは以下の4つ

  1. 美的質は、それらの存在のために、非美的質に依存する。
  2. あるものの非美的質は、そのものの美的質を決定する。
  3. 全体的な個別の依存性(total specific dependence)
  4. 顕著な個別の依存性(notable specific dependence)

1と2は一般的な美的性質と非美的性質の関係であり、3と4は個別的な関係、つまり実際の具体的対象が持つ美的性質と非美的性質の間にある関係である。1と2はAesthetic Conceptsで述べられたことであり、現代的に言えば美的性質の非美的性質への随伴性(Supervenience)の関係であり、ここではこれ以上取り上げられない。問題は3と4のより具体的な美的性質と非美的性質の依存関係であり、以降の論点は基本的にはこの二つの関係である。
3の「全体的な個別の依存性」とは、その作品についてのすべての物事が正確にそのようにあるから、優美であったり、繊細であったりするように、ある対象の個別の美的性質がその対象の全体の非美的性質に依存する関係である。一方で、4の「顕著な個別の依存性」とは、小さな変更が目立った美的変化に作用するような、ある作品におけるもっとも目立った寄与を為していると思われる非美的性質と美的性質の関係である。つまり、ある対象の個別の美的性質がその対象の顕著な非美的性質に依存する関係である。美的性質と全体の非美的性質の間の関係である3の「全体的な個別の依存性」からは、芸術作品の独自性というテーゼが帰結する一方で、この関係を指摘することは批評においてはトリヴィアルである。というのは、個別の対象の性質全体がある美的性質を決定することは、その個別的な対象がある美的性質を持つという以上のことを、我々に伝えないからである。一方で、美的性質に顕著に関わる非美的性質の関係である4の「顕著な個別の依存性」は、なぜその対象がそのような美的性質を持つのかとい問いに、その美的性質を決定付ける顕著な非美的性質を指摘する点で、3より意義のある言明を構成する。つまり、一般的に批評家に求められることは、その対象の全体がある美的性質を持つかを指摘するだけではなく、その対象の特にある部分がその美的性質を決定付けているかを指摘することである。よって、4は批評において重要な役目を果たす。
ややこしいのは、3と4は一見して相反しているように思われることだ。つまり、一方では対象の全体がその対象が持つ美的性質にレレバントであるのと同時に、その対象のある非美的性質がその美的性質に目立ってレレバントである。確かに、通常、批評において我々を興味付けるのは4の関係ではあるが、そのような関係が認められたとしても、3の関係が成り立っていることが重要である。つまり、確かにある非美的性質がある美的性質を決定付けるのに目立った役割を果たしていても、その他の非美的性質が何らかの形でその美的性質を決定付けているという可能性は捨てることができない。4の関係は、あくまでもある美的性質がある非美的性質に顕著に依存することであって、その美的性質がその非美的性質だけに依存しているというものではない。

2つの批評的活動

上述した関係は、特定の場合におけるある人の認識に独立している諸質の間に、保たれるものである。つまり、人はしばしばある非美的性質が決定する美的性質を認識できなかったり、美的性質に顕著にレレバントである非美的性質を識別できなかったりする。このような場合に重要になってくるのが、批評家の役割である。
第一の役割は説明(explanation)である。これは主に、なにが原因であるかを分離して指摘することによって、いかに美的効果がその作品において達成されるかを示すことで構成される。というのは、たとえ、我々があるものの優美さを主張したとしても、我々はやはり、なぜそれがこれらの質を持つのかを言うことができないことがある。しかし、良い批評家はそのような説明をできるべきであり、それは我々の鑑賞を深める役割がある。
この種の説明は、物事の非美的/美的質、特徴の言及を両方、含む。つまり、「ある絵が優美である」ことを説明するのに、「この曲線に注意せよ」といった非美的特徴に言及することもあれば、「この形の繊細さに注目せよ」と別の美的質に言及することもある。しかしい見させるためには、その美的質の原因となる非美的質を指摘することと、それらの関係を理解させることの二つがある。
いかに批評家が、人々に彼らが見逃していた美的質を理解させることができるのかは、非常に難しい問題である。しかしこれについてシブリーは、人と人の顔の類似性を理解させたり、ジョークの可笑しさ理解させたりするようなもので、それ自体が美学的な問題だと思っていないようだ。シブリーにとって、より重要な事柄は、批評家が美的質を理解させるために実際に行う活動であり、それは直喩、暗喩、比較、ジェスチャーといった言語的、非言語的に関わらずあらゆる活動が含まれる。この点については、Aesthetic Conceptsの後半部が詳しい。
さて次に、この批評家の第二の役割において問題となるのは、これは何と呼ばれる活動なのか、ということだ。つまり、それは美的判断を支持したり(supporting)正当化したり(justifying)する方法なのか、否かということだ。シブリー自身は、上述したように、これを知覚的証明(peceptual proof)と呼ぶ。なぜ支持したり(supporting)、正当化したり(justifying)することではなく、知覚的証明という独特な用語を用いるかは、この批評家の第二の役割に関わる本質的な問題である。シブリーによれば、この第二の役割を美的判断の支持、正当化と呼ぶことはミスリーディングであるという。この点を彼は、論理的推論と知覚的証明を対比することによって説明する。つまり、批評家の役割は実際に彼が言及する美的質を人々に見させることにあり、彼がなぜその美的質を判断したのかを、論理的に支持したり、正当化したりすることではない。「私はこの絵を優美だと思う。なぜなら、カクカクシカジカであるからだ」という批評家の正当化に対して、「なるほど分かりました。カクカクシカジカであるから、あなたはこの絵を優美だと思うのですね。それは確かに納得できる理由でしょう。しかしながら、私にはちっともこの絵は優美に見えません」とその論理的正当化を認めながらも、批評家の美的判断と同様の判断を為すこと拒否できる。つまり、この場合、批評家は論理的正当化や支持において成功しているかもしれないが、知覚的証明に関しては全く成功していないことになる。

理由(reasons)とは何か?

以上のように、シブリーは批評家の役割として説明と知覚的証明を挙げ、後者の知覚的証明が論理的正当化や支持とは違うことを主張する。しかしながら、知覚的証明が、論理的な理由を与えることの事柄でなくとも、美的判断がいくつかの他のやり方において、理由によって正当化されたり、支持されたりするか否かは、考察に値する。
この問題には2つの場合がある。一つは、「ある物の非美的性質についてのどんな言明も、それがある特定の美的性質を持つことを認めたり、結論付けたりするための、理由として単独で従事することができるだろうか?」というもの。これはつまり、上述のような知覚的証明の場合と違って、ある物に対する非美的性質の帰属とそれへのある美的性質の帰属が、概念的、もしくは偶然的(経験的)関係がある否かについてである。Aesthetic Conceptsで述べられた表現で言えば、美的概念の条件となるような非美的性質が存在するか、否かということである。この点は論文の後半で扱われる。
次により重要な問題として、知覚的証明が論理的推論のような理由によって正当化されたり支持されたりしないにも関わらず、しばしば批評家は彼の判断のための理由を持っているべきだと主張される。この場合において理由とは一体、いかなる意味において使われているのか?この点を理由という言葉を分析して、シブリーは2つの異なる使い方があると以下で主張する。

批評家の持つべき理由とは?

最初に述べられた美的/非美的の四つの関係の議論は以下のことを含意する。すなわち、どのような美的質のためにもいくつかの非美的質があるべきでなら、なぜその物がその質を持っているかのいくつかの理由が常に存在して、存在するべきであるということだ。そして、批評家は彼の判断のための理由を持っているべきだという主張は、この意味において、なぜその物がその質を持っているかについての理由を指摘できるべきだという主張である。
そのような批評家が持っているべき理由の意味を明確にするために、シブリーは以下のような文を考察する。

  1. トランプ一組が不完全である理由は、クラブのエースが行方不明であるからだ。
  2. 彼が不機嫌である理由は、あなたが彼の要望を断ったからだ。
  3. 彼が可笑しく見える理由は、彼が変なやり方で目を細めているからだ。
  4. それがとても厳粛に響く理由は、その行にいくつかの長母音があるからだ。

それぞれの文があることの理由を与えている。便宜的に私はこれを形式化して表す

  • Rab:事実aである理由は、事実bだからだ。

それぞれの場合で、理由となる事実bを予め知らなくとも、人は理由によって帰結している事実aに気付いたり、知ったりするだろう。ところでまた、それぞれの場合で、理由となる事実bも、事実aに独立して気付いたり、知ったりする。
だが1と2が、その理由となる事実b(クラブのエースが行方不明である、あなたが彼の要望を断った)から事実a(トランプ一組が不完全である、彼が不機嫌である)を推論するための、決定的、もしくは良い理由となるだろうが、3と4においてはそうではない。これらを同じく理由と呼ぶことは、なぜ物事がそのようであるのかという理由と、それらがそうであると考えたり、結論付けたりするための適切もしくは、決定的な理由を混同させる。3と4の理由となる事実b(彼が変なやり方で目を細めている、その行にいくつかの長母音がある)は、事実aを推論するには極めて貧弱な理由でしかない。1と2の意味で、批評家が彼の判断のために理由を持つべきと主張するのは無理がある。批評家が持つべき理由とは、事実bは実際に、事実aである理由であるだろう、そしてそれでもやはり、事実bという知識は、それが事実aであるということを支持するための理由や正当化を提供しないだろうという理由であるのだ。
このような「理由」という語の2つの使用における違いから、シブリーはビアズリーの美的判断におけるその理由と判断の間に論理的連関があり、それは抽象的なやり方で一般化に関わるという主張を批判する。1や2のような理由においては、それらに何らかの論理的連関があり(1に関しては決定的な論理的連関がある)、一般化可能であるが、3と4のような理由にはそのような論理的連関も、一般化にも関わらない。つまり批評家の美的判断のための理由とは、たとえ彼が正しいときでさえ、その主張を正当化する演繹的や帰納的能力を必要とするものではない。

ここまでのまとめ

以上によって、シブリーは本論での議論を以下のようにまとめる。

  1. 美的効果の説明
  2. 「知覚的証明」による判断の支持
  3. 美的判断を理由(推論)からそれらを引き出すことによって為すことの不可能性
  4. 批評家が、なぜその作品が彼の主張する美的特徴を持っているかについての理由を与えることができるだろう、そしてできるべきだ、ということの意味
  5. ただ非美的性質についての言明だけが与えられた場合、人は美的質の帰属を為したり、受け入れたりすることにおいて、正当化されうるか否か、という疑問

さて1、2、3、4については以上で詳述されているが、5は「理由(reasons)とは何か?」の部分で先送りした問題である。そして論文のこれ以降の論点ははこの問題について答えることである。
5の問題において重要なことは、それは美的判断を非美的性質についての言明によって正当化できるか、否かではなく、美的知覚が関与しない美的性質の帰属において、そのような言明が正当化として寄与するか否かといった問題である。要するに判断ではなく、論文の最初で述べられた4つの関係の他に、美的性質と非美的性質の間に言葉としての概念的(分析的)関係や偶然的(経験的)関係があるか否かという問題である。よって論点は次の二つにおいて議論される。(ただし、この点はシブリーははっきりと述べていないが、論文の最初で述べられる随伴性、決定性などによる関係は、我々の判断に関する形而上学的(存在論的)関係であり、一方で以下で述べられるは言葉の意味に関する関係であることに注意すべきである。)

いくつかのさらなる関係:概念的

冒頭で述べたように、一般的な美的/非美的の間には随伴性の関係があることは明白であるため、当然、具体的な美的性質、例えば「優美な」という語とある非美的性質の間にも関係があると考えられる。音楽において、静けさ(quietness)と遅さ(slowness)は、悲しさ(sadness)と厳粛さ(solemnity)といくつかの緊密な関係を持つ。しかし、そのような関係にしても、シブリーはAesthetic Conceptsと同じく、「典型的に、もしくは特徴的に連関すると言うべきだ」と主張するに留まる。実際に、これらの関係は容易に反例を指摘することが可能だ。つまり基本的には、Aesthetic Conceptsでされる美的概念の非条件支配性の主張から、非美的性質についてのみ訴えることによって、ある物がある特定の美的質を必然的に持つにちがいないことを、確証したり、推論するのは不可能であると結論される。
しかし、それでも何らかの関係を指摘することはできないかと、シブリーはAesthetic Conceptsで指摘した「否定的条件」と「特徴的に関連する」という関係以外に、以下の点を指摘する。
第一に、ある非美的質はいくつかの美的質のために論理的必要であると思われる。例えば、派手派手しさ(gaudy)やけばけばしさ(garish)のような美的質は、パステルカラーや薄い色ではなく、明るい色のような非美的質が必要だと思われる。
第二に、いくつかの非美的質はある美的質による論理的に前提とされるものだと言われるだろう。例えば、ただの点や面について、それが優美さ、統一性、バランスを持つと言うのは不可能だろう。そのような質を帰属させるには、ある程度の部分から構成される何かが必要だ。
第三に、今述べた前提の論理的な必要性よりも強制力が少ないものだが、特徴的連関や関係があるだろう。上述したように、「悲しい」という言葉が音楽に適用されるとき、スローテンポ、静けさ、低い音程、休符、下降音、マイナーキーなどという特徴が想起される。これらのいくつかの関係は偶然的であるかもしれないが、概念的なものもあるかもしれない。とはいっても、それらは論理的に必要であるかもしれないが十分ではない。
よって、概念的関係について言われることをまとめると、「美的概念が十分条件によって支配されること」はないが、「もしあるものが美的性質Aを持っているならば、それは、ある非美的性質N1、N2、N3…を、非常に持ちそう、それとも、必然的に持つことさえあるだろう、その後者は、いくつかのAとの概念的な関係を持つ質である」ということは主張できる。だが一方でやはり「性質N1、N2、N3…を持っていることは、Aの保証にはならず、論理的関連に関する限り、ある人が言えることのすべては、それがAを持つだろうということだ」と結論される。

いくつかのさらなる関係:偶然的(Contigent)

最後に問われるのは、美的/非美的の間の偶然的な関係、つまりは帰納的な一般化によって明らかにされる経験的な関係である。この議論をするためにシブリーは、ビアズリーの「領域的質(reginal qualities)」とそれらの「知覚的条件」の間の関係についての議論を参照する。ビアズリーの「領域的質」とは「局所的質(local qualities)」対比されるもので、ほぼシブリーが言う美的質と同じものと考えてよい。
ビアズリーの議論は以下のようなものだ。例えば、「しかじかの質(スローテンポなどなど)を持っている音楽は…悲しい傾向である」。よって、ある特定の質は音楽を悲しく「する傾向がある(tend to make)」。これらは「悲しさを作る(sad-making)」質である、など。
この議論は「tend」という言葉をいかに解釈するかに左右される。シブリーが見るところ、おそらくビアズリーは他の質によってその悲しさが覆されることもあるだろうが、「スローテンポはそれ自体として、悲しさを作っている」と主張しているようだ。しかし、いずれにせよそのような一般化は成り立たない。スローテンポという質は、悲しさだけではなく他の様々な質に関わるからだ。
この関係におけるシブリーの結論もまた、概念的な関係のものと同じく否定的である。ただし、ある美的質と非美的質の間の一般化自体を否定しようとはしない。彼がこの論文で主張することは「提案されてきた、いくつかの魅力的な一般化は疑問に付されるもの」であるということだ。

「正当化」

以上のように、美的/非美的の間の論理的、準論理的、偶然的関係について述べたあと、最後に、物事の非美的性質についての言明によって、美的判断を正当化できるかどうかを問う。
概念的関係について主張されたように、「非美的質に関するいかなる言明も、それ自身によって、論理的に美的判断の真を確実にしない」。だが一方で、前節で述べられたように、今のところ妥当な帰納的一般化は存在しないかもしれないが、そのような一般化は想定可能である。ただし、一般化による、この種の美的判断の「正当化」はすべてのそのような判断のために提供されることはない。

感想とか

疲れたからまたこんど。この論文は思った以上にややこしい。論点が結構豊富にあるから。