エピステモロジー!

って叫ぶと強そう。でもオントロジーの方がやっぱ強そう。ってのはおいといて。
知識の哲学
戸田山 和久
4782802080

以前から気になっていたこれを読了。産業図書の哲学教科書シリーズはあたりが多い。
内容的には細かい議論はかなり難しかった。ゲティア問題とかは言わんとしてることはなんとなくわかるけど、なんつーか難癖のように(というかまあやはり古典的知識の定義がアレなのか・・・)しか思えなくもない。ただ外在主義的立場をとることのポイントは理解したし、以前からよく分からんかったパトナムの双子地球の議論のポイントも分かった(気がする)。
しかしながら、いっそうに興味深いのはクワイン以降の「自然化された認識論」から戸田山氏が主張する「認識論の社会化」の流れである。このようなパラダイムの転換は、美学を認識論の一部として考えることが多い英米の美学者(例えばグッドマンとか)にとって何を意味するのかを考えるべきだろう。自然化に関しては、知識という人間の根源的活動に比べて美学が扱う対象は作品の鑑賞や文学の読書行為とった文化的に高次な活動であるから、直接的に美学的問題を心理学などに還元することはできないだろう。それとは別に文学理論におけるフォルマリズムの流れに影響を受けて、20世紀の半ばあたりまでには美学を自然科学化しようとする発想は常にあった。ただそれらは我々の美的な認識の根源を問うというよりも、「正しい批評とは何か?」というまさに認識論における正当化の問題であったようだ。そのような批評の正当化の問題は今では反省的に捉えられるようになり、20世紀後半からはカルスタ的な批判に晒されるようになったと思われる。つまり、美学において文学の場合は自然化される以前に社会化されたとも言える。読書行為を扱う心理学的な研究もたぶんあるかもしれんが、基本的には今では文学研究はある程度、自然化される以前に社会化されたと言えるだろうし、それ自体はグローバルな認識論より早かったように思える。一方、他の分野においても、美学は今では社会化されているとも言える。
ただしそのような「社会化された美学」はもうすでに「認識論としての美学」という立場に拘泥するものでは内容に思われる。というのもそこで言う「社会化された美学」ってのは基本的に美的な認識を文化的構築物として捨象しているように思えるからだ。つまりここでの美学の社会化(というか社会学化と言い切ってもいいか)は、美学の認識論として立場を捨てることを意味している。自分としては、さすがに第一哲学としての美学などというものが成り立つとは思っていないが、美的な認識や判断というものを文化的構築物として消し去っていいものだろうかと思っている(その意味での最大の認識論的美学の批判者はやはりブルデューだろう)。
話を『知識の哲学』に戻すと、戸田山の主張である「認識論の社会化」は、この本では詳しく述べられていなかったが、科学哲学における社会構築主義の主張ではない。というか自然主義実在論者の立場を擁護する彼は、おそらく「認識論の社会化」によって、社会構築主義反実在論の批判に答えながら、社会的かつ自然的に真なる知識が存在するという立場のはずである。つまり、認識論の自然的、社会的限界を理解した上で、それでも「我々は何を知り得るのか?」という問いに答えようとするものである。
私が現状の社会化(社会学化)された美学に持つ不満は、このような認識論的な問いかけをそもそも問題として考慮することなく、美的な認識や判断といったものを文化的構築物としてしか見なさない態度である。美学の社会的限界を理解することの重要さはよく分かるとしても、人間の根源的な活動を追求する立場として認識論的美学が成立する可能性はまだまだあると思われる。なんだかまとまりが悪くなったが、そういった意味では、美学は社会化される以上にもっと自然化されるべきだと思っている。