美的判断とは何か?@修士論文プロスペクト

先日終えたコロキウムでの発表について、簡単に紹介と今後の計画をメモ。
修士論文自体は「音楽の美的判断(仮)」という壮大なテーマを描いているものの、現時点では音楽そのもののことにはまだ触れられず、現代的な美的判断論のまとめに終始するので精一杯。「これどんな修論に何の?」というまっとうな反応をされてしまった(笑)。仕方ないよな自分でダメだと思ってるとこはやっぱりダメで。いい加減、青臭い野望を体のいい形にまとめることを考えねばならない。
とりあえず、今回は現代の美的判断論に関する論点を簡単にまとめて、重要論文をチェックしておく。

  1. 判断とは何か?
  2. 美的/非美的の区別
  3. 評決的美的判断と実体的美的判断
  4. 随伴性(Supervenience)
  5. 非法則性(Anoumalous)
  6. フォルマリズムと反フォルマリズム

1はそもそも「判断とは何?」ってのを昔自分で考えたhttp://d.hatena.ne.jp/shinimai/20070419/p1http://d.hatena.ne.jp/shinimai/20070423/p2などを参考に。倫理的判断、美的判断について議論されることは多いが、判断一般を問われることは少ないんで、まあ簡単に。発表を終わってから気付いたけど、価値判断について言語哲学的側面から一般的な議論をしているのはヘアじゃないかなと思ってる。これしか読んでないけど。
道徳の言語
R.M.ヘア 小泉 仰 大久保 正健
4326198710

しかし、改めてヘアのこれを読んだけど、やっぱ名著であるな。一般向けに簡単にまとめられているけど、実はその内容の深さはすげー。
2は今回の発表でメインだったところ。美的判断はカント以降の美学で中心的主題にされることは少なかった。20世紀前半の英米美学にとっての中心的主題は、ディッキーが「美的態度説」といって批判した、カントの無感性性概念やバーロー(バルー?)の心的距離概念の延長線上にある、美的態度や美的知覚に関わるものである。それについてはディッキーの集中的な批判が以下の本でなされている。
Art and the Aesthetic
George Dickie
0801408873

そのような美的態度説とすれ違う形で英米美学で中心的主題となったのは、シブリー*1の論文「美体概念Aesthetic Concepts」以降の美的質とか美的性質に関わる問題である。これは倫理学における「分厚い概念」とか言うのにパラレルな話であり、これまでの美的判断論が評価的側面に焦点を当ててきたのに対して、その記述的側面に注意を与えたもの。これ以降、「美的質とは何か?」、「美的性質と非美的性質の関係」、「美的判断と他の判断の違い」といったことが議論の対象になる。シブリーの美的/非美的の区別と、それらの依存性や非条件支配性といった概念は、現代の美的性質の随伴性と非法則性という重要な論点を切り開くきっかけとなっている。ただし、シブリーのこの論文で一番問題となったのは美的/非美的の区別を感受性というような特殊な知覚能力によって行うことで、これは循環論に陥るとして様々な批判を招いた。
この論点に関してアメリカの美学のドンであるビアズリーは論文「What is An Aesthetic Quality?」で諸説を検討した上で、美的質の「価値根拠付け(value-grounding)」による定義という自説を主張する。これは要するに、「美的質ってのは、美的価値の根拠、理由となるような対象の性質のことだ」という主張で、それ自体、説得的だけど、結果的に美的/非美的の違いを美的価値という言葉によってでしか説明できないという困難を明らかにしている。でも、これ自体は仕方ない。美的/非美的という違いを対象の性質にそもそも内在する何かとかで説明しようってのは無理がある。何よりもこの区別の妥当性は、我々の直観的な美的価値にあるの間違いないからだ。
The Aesthetic Point of View: Selected Essays
Monroe C. Beardsley
0801412501

この点で最近、美的判断を再び評価的側面から議論をしなおそうというのが、3で扱うザングウィルの「評決的判断」と「実体的判断」の区別である(http://d.hatena.ne.jp/shinimai/20070417/p1などを参照)。これは彼の著作「美の形而上学The Metaphysics of Beauty」にまとめられた論文に詳しい。
http://www.dur.ac.uk/nick.zangwill/publications.html(アマゾンには無いので彼自身のサイトから)
ザングウィルは美的/非美的の区別を、「実体的美的性質は評決的美的性質を決定付けるものである」という点から説明する。これはビアズリーの「価値根拠付け」の説明と大差が無いように思われるが、ザングウィルは自らの説明をビアズリー説と対比してその有効性を説明する。このあたりは非常に形而上学的で、スーパーヴィーニエンス関係と理由付けの関係の違いとかを理解しなければなかなか難しい。詳細は省くが、重要なポイントとしては、実体的美的性質(ビアズリーにとっては美的質)の役割は、評決的美的性質(つまり端的にそれが美であるとか醜であるとか、美的に優れているとか劣っているとか)を理由付けすることにはならず、一定の方向に美的価値がどのような性質によって決定付けられているかを記述するだけに留まるというものだ。要するに、美的性質と非美的性質の間にある随伴性に加え、評決的美的性質と実体的美的性質の間にもそのような随伴性があると主張するものだ。この彼の「決定説」と呼ばれるテーゼの厳密さを説明するのは中々難しくて、自分でも理解するのでやっとだったし、発表でもうまく理解された自身が無い。でもビアズリー説との違いがたとえ、形而上学的な違いでもあってもこの区別はかなり重要なものだと思ってる。この辺のところをいかに分かりやすく説明するかが、自分の修論の1章に当たるところのポイントだと思っている。


以降の4、5、6は今回の発表ではほとんど触れられなかった。でも現代的な美的判断の議論の重要な論点はこれらに集約されるだろうという予想は多分間違いない。4はこれまでも何度も言ってきた美的性質と非美的性質の随伴性に関する議論である。この随伴性に関しては現代の英米美学においてはおおよそ認められるうるものだが、もちろん反論はある。それに関する議論は基本的に形而上学であるから、修論ではこの辺を深く突っ込みすぎないように注意せねばならぬ。5についても同様。というか4、5の議論は基本的なラインで倫理学心の哲学とパラレルな議論で、現代の形而上学が持つホット・イシューな分けで面白くてしょうがないんだが…。上記の本以外のザングウィル氏のここら辺に関する重要な論文は以下のものなど。

  • “Supervenience and Anomalous Monism”, Philosophical Studies, 1993.
  • “Supervenience,Reduction, and Infinite Disjunction”, Philosophia, 1998.

他の著者で重要であると思われる論文として

  • Robert Wicks, “Supervenience and Aesthetic Judgment”, Journal of Aesthetics and Art Criticism, vol. 46(1990)
  • John Bender, “General but Defeasible Reasons in Aesthetic Evaluation: The Particularist/Generalist Dispute”, Journal of Aesthetics and Art Criticism, vol. 53(1995)

などを今後読んでいく予定。それに併せて音楽に関する議論も並行して二面作戦になる予定。

*1:以前から私はシブレイと書いてたけど、他の日本の著書での記述に従いシブリーとするけど、本当のとこ確証が取れない。人名はやっかいだ。