GWいろいろを思い出すままに羅列する。

デートで鎌倉にいったりした。ものすごく人が多かったけど、やっぱり楽しかった。おいしいものも食べられたし、すてきな店にもいった。お土産はあまりかえなかったけど。
あとは以前書いたイベントとかに出た。ソロははっきりいって自身がなかったけど、なんとかおもしろいものができたと思う。バンドの方はまあ普通でした。音楽はやはり楽しい。誰か映像をアップしてくれたらいいのだけど、改めてみると恥ずかしいだけかもしれない。
あとは家の近くで勉強したり本を読んだり。あとDVDを見たりした。
ミーン・ガールズ スペシャル・コレクターズ・エディション
リンジー・ローハン マーク・ウォーターズ レイチェル・マクアダムス
B000GM4CGA

これは以前から見ようと思ってたやつ。とりあえず非モテとか非コミュとかスクールカーストどうこうとか言ってるヤツは見るべき。まあアメリカでも日本でも学校という文化は同じである。ただ向こうにはプロムという厄介なものがあって、その序列を顕示化する装置が一段と豊富だ。だけれども、だからこそ、自分は向こうの学園生活に対する距離を持った憧憬が一段と惹起される。まあ何にしろ学校のようなところで人間関係的序列ができるのは必然な気もする。この映画は女子に特化しているけど、まあ男子も変わりない。あと別に解決方法が提示されてないのはまあ仕方のないことかもしれない。たいていのまともな人々は高校も出て大学にでも入るうちで人間の価値の多面性に気づいていくものだから、ある程度は仕方ない。というか青春時代の鬱屈した精神を学校で養わなければ、文化は死ぬ気がする。だから自分はいじめ問題は基本的に犯罪のレベルで取り締まる一方、それ以前のことはなんとかサバイブしてくようにするしかない。そのサバイブのために学校とかができることはあんまりない。音楽とか映画とか文学が何とかするべきだと思う。
あとこれを読了。
九十九十九
舞城 王太郎
406182306X

東浩紀の本に取り上げられていたからといって、読むオレはなんてアレなんだろうと感じながらも読んだ。それなりに面白かったけど、細かい描写が少ないのはまあそんなもんなのかな。馬鹿らしい話ながらも、プレイヤー的なコミットメントを誘導することでカタルシスに達するという意味ではひぐらしとかの方が上だと思う。まあそのように読むというより、これはやっぱりメタ文学で、推理小説への批評的行為として理解すべきなのか。そういう意味ではひぐらしはゲームで舞城は文学っていうすごい安易な理解の仕方になってしまいそうですが。
どうも最近はアニメとかゲームでの批評ってのが可能か否かという議論がはてなに見られるけど、やっぱり批評ってのはある程度、そのテクストの質が謎めいているから成立するように思える。明らかに「楽しみ方」、「遊び方」が決定しているものに対しては批評は必要がない。たとえばUNOっていうゲームを批評しても、実際に新しい楽しみがそこから生まれることは想像しにくい。むしろゲームには新たなルールを作るほうが批評的に楽しい行為なように思える。