進化論から見た音楽

今年の渡辺ゼミは以下の論集を読むことになった。
The Cultural Study of Music: A Critical Introduction
Martin Clayton Trevor Herbert Richard Middleton
0415938457

タイトルが「The Cultural Study」となっているところがポイントだ。「文化社会学」じゃなくて「文化の社会学」だよって言うのに似た感じか。目次を見てわかるとおりSimon FrithやJason Toynbeeといったポピュラー音楽学の中心的人物やNichoras Cookなどの新しい音楽学のメンツなどがあってなかなか良さそうである。
で、自分は最初の回を担当することになった。Ian Cross‘Music and Biocultural Evolution’「音楽と生物文化的進化」とでも訳すのか。著者に関してはよく知らないが、まあ内容は音楽の進化論に関わる最近の認知科学的研究のレビューだ。以前からなんとなくの興味でスティーヴン・ピンカーなどを読んでた甲斐があったと言うべきだ。簡単に内容を以下に要約する。
いろんな分野で音楽は人類の普遍的なものだと言われてきた。例えば、音楽人類学のアラン・メリアムやジョン・ブラッキングなど。
だがこの考えは、musicをmusicsに置き換え、musicsは文化的コンテキストにおいてのみmusicsであると主張する、より最近の研究に一致させるのは難しい。
そのような音楽をめぐるパースペクティヴの変化の中でも、Crossは唯物主義の立場から音楽について主張しえることがあるという。進化論的な唯物主義は、人間の行動は心に、心は人間の脳に、人間の脳は人間の生態学に、人間の生態学は進化の過程に基づいていると考える。そして音楽も例外ではない。もちろん、音楽の文化的なダイナミクスは我々の生態学を基礎にある進化的過程にほとんど少しも負っていないかもしれない。だが我々の生態学的存在が明白に我々の文化的生活から分離できないので、そのように文化だけを分離して考えるのは不可能である。これは、音楽を進化の理解において還元できると主張するのではなく、ただ音楽と進化の間の関係は探求される必要があるということだ。
って感じで、そのあと現代的な進化論の解説が続くがこれは一般教養で知ってることのはず!ともかく、人間は種としては最近、発生した極めてゲノムのばらつきが少ないが、文化的には多様性がある。この多様性を考慮するなら、文化的に位置付けされる人間の行動としての音楽は、進化的過程と偶然の関係以上のものはないと予測する理由があるように思える。だが偶然の関係以上のものを示唆するものがある。
第一に、36000年前の骨笛が南ドイツのW?rttemberg近くで見つかっている。これはよく知られた視覚的芸術の最古のものよりも古く、なんにせよそのような笛以前に声がある。考古学者は人間の音楽性は古いと指摘する。音楽はヨーロッパのホモ・サピエンスの痕跡のうちで可能な限り古くから現れているという事実と、音楽性は植民地支配以前のアメリカやオーストラリアの人々の属性であるという事実は、音楽はアフリカから発生したホモ・サピエンスと同時に生じたと信じる良い理由を提供する。
そして音楽が古いだけではなく、音楽性も人類にとって普遍的かもしれない。ブラッキングは「音楽の能力は珍しい才能というよりも、人間の種の一般的な性格である」と主張してきた。もちろん、「音楽」という用語がうまくフィットしない社会は存在する。だがこれは、「音楽的な」ものとして解釈できる活動の不在を含意するものではない。フィットしない理由は、音楽的行為が文化的実践の広いカテゴリーに埋め込められている(多くのアフリカの社会)か、音楽が禁止されている活動である(アフガニスタンタリバン政権とか)といったものである。
しかし、音楽が古い来歴であり普遍性があるようだというのは、示唆的なものだ。音楽は人間にとって偶然的なものかもしれない。
進化論的文脈での音楽の理論においてもっとも広く流布したのはスティーヴン・ピンカーのものだ。ピンカーは「音楽は我々の種から消し去ることができ、我々のライフスタイルの残りの部分は事実上変わらないだろう」と言う。彼は、音楽はその適応的価値ではなく、他の適応的な人間の能力がそれを可能にし、その永続化を許すために発生した人間の行為であり、偶然的にのみ進化と関連すると主張する。一方、ジェフリー・F.ミラーは音楽は進化的な適応であると考える。ミラーにとっては、音楽は性的な淘汰の進化的過程において利用されるものである。要するに、音痴はモテない(意訳)!
だが、ピンカーとミラーの両者によって使用される音楽の観念は、現代の西洋文化のうちでの音楽だけを扱っているために限界があり、表面的だ。ある文化では、ピンカーが主張するように音楽は重要ではないし、他の文化ではミラーが主張するように性的淘汰の過程において機能するだろう。だがどちらもこれらの考えを支持する明らかな証拠を提供していない。
ピンカーやミラーの説の限界が明らかになったなら、音楽が進化のダイナミクスに根ざすものとして考えられる音楽の属性は存在するのか?多くの文化でそれらの成熟した音楽が明らかにサウンドだけではなく、行為にも関わることは知られている。さらに、音楽の文化間的視点は、音楽がまた指示と意味の多様性と関わることを示唆する。スティーブン・フェルドによれば、パプア・ニューギニアのカルリ社会において音楽は死者とのコミュニケーションのためのメディアとして機能する。ジョン・ブラッキングによればウェンダのdombaの通過儀礼において、Slobinによればクレズマーでの文化的ナラティヴの再製作において、音楽は社会関係の再構築のためのメカニズムである。これらの非常に異なった状況すべてにおいて、音楽の意味はあったとしても滅多に明示されない。音楽は何かに関連するのであり、その関連(志向性)はコンテキスト、個々によって多様である。つまり、音楽は、進化における明白な効率性はないが、音と動きに根付き、意味の混成性があり、社会的相互作用に基づき、個人的な意義を持つ。
しかし、これらの音楽の属性が進化的視点から考えられるべきであると信じる理由があるのか?もし探求の焦点が成熟した音楽から、幼少に現れる音楽性へと移るならば、答えはイエスだ。進化の効果は、文化化された振舞いをする、大人よりも幼少期においてもっとも明らかだ。そして最近の研究では、幼児が音楽の一般的属性を持つ振舞いをするという証拠が増えている。


実際に、心における進化的課程のインパクトのもっとも明白な痕跡は、文化化された大人の振る舞いよりも、用事の心の能力において明らかである。最近の研究は、環境との相互作用のによる学習の結果として説明するには速すぎる特定の能力を非常に幼い幼児が発達させていることを明らかにしてきた。彼らはある種の直観的な生態学、物理学、心理学のために準備されている。そして、すべてのヒトの幼児は言語を素早く、熟達して獲得する。ピンカーなどによれば、彼らは言語のために準備がなされているが、それらの言語能力が完全に表出されるために、継続的な言語的相互作用を必要とする。進化は、幼児の性向を形成する点で、心に作用するものとして考えられている。文化は、それらの性向の発展的軌道を特殊化する。例えば、言語の場合、ヒトの相互作用はある特定の言語において成熟した能力を取得するように導く。進化が幼児の性向のレベルでヒトの心を形成したならば、文化はそれらの性向の表出を特定の異なった形へと形成すると考えられる。Sperberの言葉では「今日では、少数の識別不可能な例外はあるが、認知科学者と社会科学者の間では、文化の多様性は生物学的多様性ではなく、共通の生物学的、そしてより明らかな認知的資質の結果であると一般的に認められている」。
音楽はこの共通の認知的資質においてある要素を構成すると、指摘されてきた。つまり、幼児は音楽のために構成されているのだ。Sandra Trehubと彼女の共同研究者たちは、幼児がメロディーに敏感で、同じイントネーションやパターンを共有するメロディーを、たとえピッチが変化しても「同じ」ものとして経験することを実証した。要するに、幼児は相対音感を持つということだ。Mechthild Papousekは、幼児がリズムと音程を使って「プロト音楽的振る舞い」を表すことを示す。このようなプロト音楽的振る舞いは、音を聞くだけではなく、音を生み出すことも含む。
Colwyn Trevarthen(コールウィン・トレヴァーセンか)は、これらのプロト音楽的な幼児と世話人の相互作用は、その間の「感情的状態の共有」に基づいた「初期の間主観性」の発達において重要だと指摘する。プロト音楽的振る舞いは、他人とパターン化された時間を共有することを可能とし、情緒的状態と相互作用の調和を助長する。興味深いことに、Gratierは母と幼児の相互作用の音楽的属性は、文化間でほとんどことならなず、相互作用の一貫性は文化的コンテクストにおいて非常に影響されることを明らかにした。Ellen Dissanayakeは、母と幼児の相互作用の音楽的な特徴は「社会的規則と感情的結びつき」のための能力の獲得において決定的に重要だとする。幼児に限らず、Hanus Papousekは子供の音楽的振る舞いを、子供の「探求能力」を育成する高次に統合的過程に関わる遊びの形成として理解する。
Crossは、プロト音楽的活動は、社会的相互作用における能力の探求と達成の手段と同じくらい、認知的柔軟性のためのメカニズムを提供すると指摘する。子供は認知と行為の離れた領域において早期に能力をは持つが、プロト音楽的行為はこれらの領域の統合において助けになる。プロト音楽的活動はある種の「浮いている志向性」、置換可能でおそらく多数の連関性を持つ。プロト音楽的行為のその浮いている志向性は、幼児において心理学、生物学、技術的な幼児の能力の異なった領域の間のコネクションを形成する手段として開発される。プロト音楽的活動を装い、音楽は、認知的柔軟性を作り、維持するのに働くことによって、メタファー的領域の発生を支えることができる。さらに、プロト音楽的活動は社会的相互作用のための能力の形成のための媒体にもなる。
この観点から、大人の音楽的能力は幼児のプロト音楽的能力に基づき、文化はプロト音楽的行為と性向を特定の機能のために特定の形態へと形成して個別化する。
以上のことから、いかにプロト音楽的行為が人類の進化において適応的であったかを指摘することが可能だ。我々をその先祖から区別する原理的特徴は生存における柔軟性である。言い換えると、現代の人間は心は、強力な認知的柔軟さによって特徴付けられ、現代の文化は非常に複雑な社会構成と関わっている。そして、音楽が現代の人間の幼児の認知的柔軟さと社会的柔軟さの発達において、ある役割を果たしているようならば、プロト音楽的振舞いの発生とそれらの音楽としての文化的実現化は、ホモ・サピエンスの体裁を特徴付ける認知的柔軟さと社会的柔軟さの発現を促進することにおいて決定的であった、というように思われる。

以上。殆ど要約ではないし、下で突っ込まれた通り適当です。特にactionとかactivityとかbehaviorの訳し分けがわからん。