現代(の)美学を大いに盛り上げる人たちの団1回目:「美的判断」(in SEP):続きの続き

前々回(http://d.hatena.ne.jp/shinimai/20070413/p1)
前回(http://d.hatena.ne.jp/shinimai/20070417/p1)
いー加減このエントリを終らせたいのでザクっといく。スターンフォード哲学百科事典(http://plato.stanford.edu/)からNick Zangwillによる‘Aesthetic Judgment'(http://plato.stanford.edu/entries/aesthetic-judgment/)の項目の要約は終わりにして、今回は「美的判断」に関しての更なる問題についてコメントしたい。

判断と反応

まずかなり基本的な話ではあるが、「美的判断」なるものが存在するか否かとか、それはいかなるものなのか、といった問題に先立って「判断って何?」ていう素朴かつハードな問題が存在する。‘Aesthetic Judgment'の項目でニック・ザングウィルは、美的判断の規範性のルーツとして人間の反応もしくは感覚の規範性を指摘している。そしてカントやヒュームのような伝統的なセンチメンタリストの美学においても、現代の美的実在論者であっても、「美的判断」という観念を想定する人々はこの点では基本的に一致していると思われる。そこで感覚や反応といったものと判断とを区別するものは何なのかという問題に頭を悩ますのは自然なことのように思える。
判断と反応といった問題に直接挑んだ哲学に関して、私は知らない。関係がありそうな事としては、以前言及したフレーゲの「意義と意味について」*1の中で、ある思想(Gedanke)が判断(Urteil)に成るためには真理値への接近が必要だなんてようなことが書いてあった(今、手元に無いから引用できない)。それから思いつく範囲において、倫理学の領域においてエイヤー(A.J.Ayer)などの情動主義者(emotivist)は、道徳的判断は感情の表出であって真理値を持たないという主張を基本とする。その場合、道徳的判断と道徳的反応が区別できないわけであるのだから、やはりフレーゲと同様に「判断」という概念が有用であるためには、真理値を持つことが必須であるように思われる。もちろん、カントやヒュームのように真理値という問題にコミットせずとも、美的な判断に対する規範性を訴える立場(その場合は共感覚という想定が必要とされる)や、ブラックバーン(Simon Blackburn)のようなより現代的な投影主義(projectivism)の立場もありうる。まあともかく何にしろ、単なる感覚や反応から判断という言葉を区別するためには、真理値や規範性といった何らかの正しさに訴える必要がある。逆に言えば、我々は判断については誤り得る可能性があるが、反応や感覚においてはそのような可能性はもっと低い。もちろん、間違った反応や感覚といったものが無いわけではないのだが(例えば錯覚の類…)。と、ここまで書いて思ったのであるが、真理値と規範性という言葉で表される正しさという言葉についても違いがあることにも注意すべきである。人種差別的な嫌悪などは「不適切な」反応や感情であるだろうが、錯覚という意味で「間違った」反応や感情であるわけではないだろう(ただし実在論の立場に立つ倫理学者ならこの議論に反論するかもしれぬ)。まあ、ともかく判断という概念には真理値や規範性というものが重要であるということは間違いないであろう。
次に、判断という言葉に込められた主体性に関して注意を向けたいと思う。例えば、温度計やリトマス試験紙は温度や水素イオンの濃度に反応するのであって、それらを判断しているわけではない。むしろそれらを判断するのは、その測定器を扱う観測者である。そしてその場合、それらの測定器の何らかの不備ゆえに反応に関して疑いをかけることも判断の一部である。要するに、「判断する」という言葉は何らかの意味で判断者の主体性を認めていることを含んでいる。この点を厳密に追求していくと、判断について議論するためには自由意志の存在を何らかの形で認めなければならないように思われる。自由意志の問題は心の哲学におけるホット・イシューではあるが、非常に困難なものであるから、あまり踏み込みたくない。ここではともかく、判断という言葉には判断者の主体性が何らかの意味で関わっているということを確認しておきたい。
ただし、ここで問題を美的判断に限定すると話がややこしくなる。我々はしばしば芸術作品や自然の美に受動的で主体的ではない反応をするような表現を行うことがある。例えば、「アルプスの白き頂の崇高さに圧倒される」とか「ベートヴェンの第九の合唱に高揚させられる」とか「アース・ウィンド・アンド・ファイアーの音楽に踊らされる」といったように(一番最後の例に関しては次回詳しく書く)。つまり、美的判断というのは常にその主体性と拮抗するような美的な強制力(?)の存在があるように思える。むしろ真正の美的経験とは美的判断の主体性を圧倒するようなものにさえ思える(バローの心的距離の問題がここに横たわる)。さらに審美眼の洗練された通人は、美的な対象にあたかも自動的な反応をするがごとく判断していると言えなくもない。ただし、これは優れたサッカーのプレイヤーがある一定の状況を判断しているというよりも、反応しているがごとく判断が素早いということパラレルな問題なのかもしれない。つまり、熟達した判断者はあたかも対象に反応しているように見えるということだ。
また、この判断の主体性に関しては、チューリング・テストのようなものを想定することでコンピュターが判断をしているか否かという問題設定もできよう。ただし、これに関しても上述したような心の哲学のハード・プロブレムにぶつかることは容易に推測できる。
さて、以上のように判断という言葉には規範性や真理値といった正しさと、何らかの意味での判断者の主体性が強く関わるように思える。この二点はどこか複雑に絡みあった問題のように思えるが、これらと独立してさらに次のようなことが言えるのではないかと思う。
それは判断の相互作用性とでも言うようなものだ。例えば、色覚異常のテストを小学校などでやったことがあると思うが、あのテストでは被験者が様々な色のパターンから記号を判断する。そして実験者はその被験者の判断を判断することによって、色覚異常か否かを判定する。このような判断の相互作用性は特殊なものではないように思える。例えば、我々は人の味覚の良し悪しをその人の味覚の判断によって推し量る。また、美的判断という意味での趣味の良し悪しは当の人が為す美的判断によって推し量る。つまり判断する者は常に他の者に判断されることになる。
このような意味において判断とは対象と主体の間の二項関係で捉えるよりも、対象と判断主体と他の者たちという三項関係、または三人称の関係において意味を為していると言えるのではないか(三人称的という発想は前回の勉強会の中で友人が指摘してくれた)。その意味では、上述した判断の規範性ないしは真理値と、主体性という2つの問題は、この三人称的関係の中で改鋳できるのかもしれない。さらにこの三人称的関係の中では新たな問題が発生する。それに関して、私は以前から偽善という問題に興味を持っている。偽善なるものが成立するためには、対象と主体の二項関係ではなく、対象と主体とその主体を判断する他の者という三項関係を想定する必要がある。孤独なロビンソン・クルーソーが偽善的な態度から何らかの判断をするようには思えない。そしてこれと同じように、美的判断においても三人称的関係においては偽美的な態度?が存在するように思える。ピエール・ブルデューの『ディスタンクシオン』のサブタイトル「社会的判断力批判」はそういった意味での美的判断への批判、もっと言えばカントの『判断力批判』への社会的――つまりは、三人称的関係における――批判であるのだ。
話は多少ずれたが、ともかく判断ということを考えるにはその三人称的側面に注意することは必須であるように思われる。ザングウィルも「美的判断」の項目で、その規範性の他の者との関係性や「社交性」といったことに言及しているがまだまだ不十分なようだ。まあただし、そのような三人称的側面に注目するならば、言語分析的なアプローチよりも社会学的なものになるのではあるが。
長くなったのでとりあえずここで筆を置くことにする。判断に関して言いたいことはもう一つある。