現代(の)美学を大いに盛り上げる人たちの団1回目:「美的判断」(in SEP)

このようにふざけた名前ですが、まっとうな勉強会です。
今回は私がスターンフォード哲学百科事典(http://plato.stanford.edu/)からNick Zangwillによる‘Aesthetic Judgment'(http://plato.stanford.edu/entries/aesthetic-judgment/)の項目を担当しました。以下、簡単なまとめとコメントを掲載しておきます。

1.0 趣味判断
 1.1 主観性
 1.2 規範性
 1.3 規範性の改定
 1.4 規範性と快
 1.5 趣味判断と大きな問題

2.0 美的判断の他の特徴
 2.1 美的真理
 2.2 心的独立性と非美的依存性
 2.3 依存性と法則性
 2.4 正しさの優位

3.0 美的な観念
 3.1 問題といくつかの用語法的指摘
 3.2 階層的提案
3.3 美的教訓

以上が目次の訳だが、2.2は何故だかMind-dependenceとなっているが、内容的には明らかMind-independencenだから心的独立性と訳した。
1は基本的にはカントの『判断力批判』における趣味判断論であって、美学徒には常識的な内容。要するに趣味判断の基本的条件とは主観性と規範性であり、規範性とはカントの言葉でいうと普遍妥当性、つまり他の人にも自分の判断を共有することを要求するというものである。そしてこの規範性に関してザングウィルは1.3、1.4でより詳細に説明するために改定を行う。いかに普遍的で主観的である判断が可能であるかという問題に対して、カントは「構想力と悟性の調和の取れた自由な遊び」という「深遠な」説明を行うが、この説明ではなんのこっちゃわからん。それでもカントにしてもヒュームにしても趣味判断の規範性が快の感覚の規範性に起因しているという点で一致しているというのが、ザングウィルのまとめである。そして1の趣味判断の議論全体については以下のようにまとめる。

私はこのように物事を要約できる。趣味判断は、素敵さや嫌さの判断と外的な世界に関する経験的判断の間の中間点を占める。趣味判断は、普遍的妥当性を持つという点で、経験的判断のようだ。しかし、それらは、内的な反応に基づいていて為されるという点で経験的判断と違うようだ。反対に、趣味判断はそれらが内的な主観的反応や経験に基づいて為される点で、素敵さや嫌さの判断のようだ。しかし、それらは普遍的妥当性を要求しないという点で、素敵さや嫌さの判断とは違うようだ。

さらに残された大きな問題として、「そのような主観的に普遍的判断は可能であるか否か、そしてもし可能なら、いかに可能であるか」をあげる。そしてカントの趣味判断論はその解決が正しくなくとも、問題設定そのものは正しいものであったとして評価できる。


次に2では現代の美学において議論される美的判断の特徴として、美的真理、心的独立性と非美的依存性、法則性に関して議論する。
美的真理とは1で言われた判断の規範性を、その判断が真理値があるというものとして改定したものである。このような改定は美的なものに関する実在論へコミットする可能性を感じさせるものであるが、実際には1で説明された規範性以上の強い主張は帰結はしないため、美的真理という概念を使わずとも議論ができるとザングウィルは結論する。
次に心的独立性と非美的依存性である。心的独立性とは「何かが美しいか否かは私の判断に依存しない。それをそのように思うことは、それをそのように為さない。」ことであり、噛み砕いて言えば「何かを美しいものと思うこと」と「実際に、そのものが美しいこと」は独立しているというものである。具体的には我々は自らの美的判断が間違っていたと思うこともあるし、自分の趣味が年と共に向上するとも考える。というか規範性を認める以上、その判断が正しいことが感覚や印象といった主観的なもの、つまりは心から独立していなければならないのは当然だろう。そのためにこの心的独立性に関してはこれ以上のことはほとんど書かれていない。
一方、非美的依存性とは次の三つのヴァージョンを表すような、美的性質の非美的性質への依存関係、もしくは随伴性(supervenience )関係である。

(a)二つの美的に異なった物事は非美的にもまた異なっているに違いない。
(b)何かが美的に変化することは、それが非美的にもまた変化しない限り、ありえない。
(c)何かが美的に違っていることは、それが非美的にもまた違っていない限り、ありえない。

それぞれ、対象間、時間間、世界間依存性、もしくは随伴性(supervenience )と呼ぶ。依存性と随伴性(supervenience )は厳密には違うけど、ここではそれ以上は触れない。ともかく、この美的性質の非美的性質への依存の問題はFrank Sibleyの‘Aesthetic Concepts'や‘Aesthetic/Nonaesthetic'において開拓されてきた現代の美学においての重要な論点の一つだ。
この依存性の議論では、美的性質が依存するものが、その美的判断の対象の本有的な物理的で感覚的特徴に留まるという、言わば「テキスト内美的性質依存」と、そのような特徴を越えて、芸術作品の起源や他の芸術作品に関わる広がると主張する、言わば「テクストおよびコンテクスト的非美的性質依存」というヴァージョンが存在する*1。後者の立場の者としてKendall Waltonがあげられるが、ザングウィルは自身の著作でそれを批判して前者の立場をとっている。ただし論争的な問題は美的性質の依存的土台の範囲に関してであり、美的性質がいくつかの非美的な依存的土台を持つことは、現代の美学者においてはほぼ認められている。
次に2.3の依存性と法則性だがここで述べられることは、実際には美的判断の非法則性(anomalous)である。具体的には、美的性質は非美的性質に依存するのではあるが、どのような非美的性質と美的性質の間の法則、ルール、原則も存在しないことだ。つまりは、非美的性質の知識の根拠に基づいて、美的性質を述語付けるために使われうるどのような一般化も不可能であるということ、もっと噛み砕いて言えば「かくかくしかじかの非美的特徴を持つものならば、かくかくしかじかの美的特徴を持つ」といった一般化が不可能であるということだ。
この変則性についても、依存性と同様にほぼ現代の美学者において認められているが、例外が存在する。それはMonroe Beardsleyの美的に卓越しているための三つの条件――統一性、強度、複雑性という主張である。このビアズリーの意見は「英雄的」と評される(皮肉っぽく…)ことが多いのだが、実際には「何がある物に統一性、強度、複雑性といった特徴を持たせるのか?」というように非法則性が別の問題に置き換わることにしかならない。
以上のように、非法則性には確かな根拠があるわけだが、その理由を説明するのは非常に困難である。ヒュームやカントならば、それを趣味判断の主観性から説明するだろう。また、シブレイは美的概念は肯定的には「条件支配」されないと主張し、マザーシル(Mary Mothersill)はいかなる趣味の本物の原則や法則は存在しないと主張するのはあるが、その主観性以上に訴える説明は存在しない。
以上のようにこの2で主張される美的判断の特徴の中で重要なものは、その非美的性質への依存性(もしくは随伴性)と美的性質を判断する上での非法則性の二つである。この二つは、美学の外部の倫理学心の哲学にもあるような「居心地の悪い関係のコンビネーション」であるのだが、美学においても受け入れるべき十分な根拠があると理解されている。
そして最後に2.4で確認されることは、以上のような美的判断の特徴において、それが正しさを持つ、つまりは規範性がある、ということがその諸特徴のもっとも基本であることだ。なぜなら規範性が主張できないのならば、他の特徴を主張することもできないからである。


以上で、現代の美学で美的判断について議論されることの大まかなまとめである。そしてザングウィルは最後にこれらの論点に対して、より詳細な記述が可能である自らの説を唱えるのである。
現代における美的判断の概念とはおおよそまとめると以下のとおりである。

  1. 美や醜の判断を範例とする――物理的性質、感覚的性質に関する判断を除外
  2. 他の美的性質(daintiness, dumpiness, delicacy, elegance)の判断も含める。
  3. 適意を除外
  4. 表象的性質を除外

1は基本的にはカントの趣味判断と同様であるということ。2はそれよりも広く様々な美的性質(日本語で言うと例えば「優美な」とか)を扱うということ。3は食べ物のおいしさとかそういうのは無し。4は例えば、ある絵が「木を描いている」というような判断は無しで。
以上のような美的判断を基本とする現代の「美的」という概念は、20世紀ではかなり批判的に扱われてきたが擁護するものも存在した。その代表的な例として、ビアズリーとシブレイがあげられる。
ビアズリーは上述したとおり美的経験はその統一性、強度、複雑性によって区別されると主張する。しかし、これが上手くいかないことは見たとおりだ。シブレイは非美的な性質の識別が健全な視覚、聴覚を持った人なら誰でも達せられる一方で、美的性質の識別は特殊な感受性を要求すると主張する。だがTed CohenやPeter Kivyなどから、美的性質を帰属することは実際に特殊な能力を必要としないという批判受け付けることになる。
以上のような概観から、「現代的な分類は恣意的であるのか?これらの判断を美的として区別するものは一体何か?それらは共通して何を持っているのか?そして、いかにそれらは他の種類の判断と違うのか?これらの判断はおさまりが良い種を構成するのか?」というような問題に応えるために、ザングウィルは次のような提案を行う。それは美的判断を以下のように階層化することである。

趣味判断、もしくは美と醜の判断を「評決的美的判断(verdictive aesthetic judgments)」と我々は呼びたい、そしてその他の美的判断(daintiness, dumpiness, elegance, delicacyなどの)を「実体的美的判断(substantive aesthetic judgments)」と呼びたい。そのアイデアは、これらの実体的判断は、主観的に普遍的である評決的な趣味判断と特殊に緊密な関係であるがため、美的であるというものだ。

そしてこれらの間の関係について以下のように説明する。

第一に、実体的判断は、美しい、もしくは醜いあり方を記述する。ある物がある特定のあり方で美しいのは、そのものがelegant, delicate, daintyであることの一部である。そして第二に、それらが評決的美的判断を含意することが、実体的美的判断の意味の一部である。

このような規定を行うことでザングウィルは具体的な状況を上手く説明するわけであるが、長くなったので私のコメントと共に次回書くことにする。

*1:「テキスト内美的性質依存」といった言葉はオレがここででっち上げたもの。