フレーゲ「意義と意味について」

たぶんコレに入ってる。
フレーゲ著作集〈4〉哲学論集
G. フレーゲ 黒田 亘 野本 和幸
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紹介の必要さえない超古典、言語哲学オールドスクールかつマスターピース!昔、教養学部の授業で原文をすこし読んだりしたので、新たな発見はないかと思ってたけど、読み直すとすげー。算術の基礎とかマニアックで基礎的な研究をしながらも、一般人が読んでも面白い論文を書くフレーゲはすげーなーって改めて思った。以下、美学的に重要な部分についてコメントする。

一つの記号の意味とも区別されるべきであり、また、その記号の意義とも区別されるべきであるのは、その記号に結合する(Vorstellung)である。記号の意味が感覚的に知覚可能な対象であるならば、その対象について私が持つ表象は、私が持っていた感覚的印象を想起することと私が遂行した内的ないし外的な行為とから生成する内的な像(Bild)である。この像には、しばしば感情が浸透しており、個々の部分の明瞭さは千差万別であり、かつ、うつろいやすい。また、同一の人物においてすら、同一の表象が同一の意義に結び付いているとは限らない。表象は主観的なものである。(中略)したがって、表象は、記号の意義とは本質的に区別される。意義は多数の人の共有物でありうるゆえに、諸個人の魂の部分であったり、その様態であったりすることができないのである。なぜならば、世代から世代へと承け続いできた思想の共有の蓄積を人類が持っているということをおよそ否定することはできないからである。

フレーゲの有名な記号における意義(Sinn)と意味(Bedeutung)の区別とは別に、実際に議論から排除される「表象」という問題が美学的に重要なことは間違いない。言語哲学者を悩ませ続けてきた暗喩の問題もこの「表象」に関わるものである。ここではフレーゲは表象から意義を区別するために、表象の主観性を強調するとともに意義の「外在性」もしくは「間主観的」な歴史性を訴えている。だが「『ブケファルス』という名前に対して、画家と騎士と動物学者は、それぞれ独自の表象を結び付けることであろう。」というフレーゲの例からは、実際には表象においても「世代から世代へと承け続いできた思想の共有の蓄積を人類が持っているということをおよそ否定することはできない」ことが示唆されているように思える。
さらにその後、意味と意義と表象を月と望遠鏡の像と網膜像によるアナロジーで語る場面がある。それによれば意義である望遠鏡の像は、観察をする位置に依存しているにせよ、複数の観察者が利用できる限りにおいて依然として客観的だが、網膜像は一人一人によって異なっている。たとえAの網膜像をBが見ることができるようにしても、その「Aの網膜像」はBの網膜によって見られるわけであるから、「表象それ自身を対象として捉えることが可能でありながらもなお観察者にとっては、その表象が表象者にとって直接的に現れるものではないということを示すことが可能である」ことになる。
しかし、このアナロジーの網膜像によって示唆されているのはある記号の表象というよりも、ある記号が及ぼす主観的な印象(より現代的に言えばクオリアといってもよい)である。フレーゲは「表象」という言葉によって、そのようなクオリア的なものと記号が持つイメージ(Bild)の両者を含むように使っているように思えるが、これらは区別するべきであろう。記号が持つイメージは言語的に記述が可能であるために、完全に主観的なものとは言いがたい。いやもしかしたら、そのようなイメージはフレーゲの意義に含まれているのかもしれない。例えば「ブケファルス」という固有名を知らなかった私にとって、その名前はなにかマヌケな印象を与えるものであった。そのような印象はおそらく日本語の音韻構造から来るものかもしれないが(ラカンなら象徴界とかで説明できよう)、その固有名の意味を知った今は、その印象は気高く荒々しい動物を思わせる。そのような固有名が指す意味を知った後の印象とは、その意味=対象の与えられる様態である意義の一部と言うべきで、純粋な表象ではないというべきなのであろうか。ともかく、私個人としては「ブケファルス」=「なんだかマヌケななんか」という純粋な表象作用は、その固有名が指すものを知った後には維持可能だとは思わない。