差別意識、侮辱表現

思った以上にこの話題に関心が集まるのでもう少し分かりやすく書いてみる。後半の部分がどうもわかりにくいとも言われるが、アレはアテコスリの部分であるのでわざと分かりにくく書いているのでもあるが。
まず問題とすべきなのは差別意識という言葉の難しさであろう。意識とはその本質として他人からは判断がつかないものである。ある行動をした者に対して「差別意識がある」と糾弾することは確かに正当な非難であることもあるが、そのような意識が客観的に確定されない以上、問題とすべきなのは差別的言動の方である。そして「私は差別意識を持たない」と自称するのが確かに無駄な宣言であり、そのようなことは普段の言動から遡って判断されるべきである。だが、それとは逆に「誰でも差別意識を持っている」などとニヒリスティックに語る行為が正当化されることはありえないと思う。なぜなら「差別意識を持っている」などと公言するのは、間接的な発話行為としてに差別的に機能していると思われるからだ。話題が具体的な職業に関する差別に関わるのならなおさらに。おそらくこの話題において「人は誰でも差別意識を持っている」などと公言するものは、欺瞞的なあり方を暴くやり方で自らの道徳性を誇示しようとでもしているのかもしれないが、そのような一般化がこの話題において果たす機能について無関心であるに違いない。
つまり、ここで話は侮辱表現一般の問題に繋がる。前回も述べたとおり、侮辱表現とは基本的には文脈が介在しない言明のレベルにおいて判断されるのではなく、5W1Hが問題とされる言説のレベルで判断される。馬鹿、畜生、マヌケなどといった単語の文字通りの意味において侮辱である言葉も存在することは間違いないが、だからといって侮辱表現一般が意味論的に判断されるわけではないのである。皮肉のような間接的発話行為を考えればわかるように、侮辱表現とはもっと高度な言語的問題なのである。そのように考えるならば、ある人Aがセックスワーカーに関してなんら職業的な差別意識を持っていない場合にしろ、その人Aに対して「妻はソープ嬢?」と公の場で質問するのは明らかに侮辱であり、Aが怒るのは当然である。そしてそれが侮辱であるのは、A自身が職業的差別意識を持っているか否かに関わらず、その発言の文脈によって判断されるべきだと思う。