教養とか、教養かと

学校が休みの期間になったので、自分の研究分野の外堀を埋める読書。
人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (上)
スティーブン・ピンカー 山下 篤子
4140910100

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (中)
スティーブン・ピンカー 山下 篤子
4140910119

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (下)
スティーブン・ピンカー 山下 篤子
4140910127

以上を読了。
今日において人文系の学問を志す者にはある種の不安感がある。その不安感というのは、経済学という暗黒大陸への畏怖だったり、大陸系思想と英米哲学の間の谷への恐怖感であったり、するわけではあるが、美学という学問を志すものにとっては昨今の認知系諸学問が一番のものであろう。視覚や聴覚といった諸感覚、言語や思考といった概念、想像力やイメージといった旧来なら美学の占有物であったものなどを真摯に考える者なら、それらの問題が科学的に妥当であるかどうかに不安にならざるを得ないのである。そういった不安感を解消すると同時に適切な問題を設定するために、認知科学の立場から言語から道徳、ジェンダー、差別、芸術まで幅広く論じた本書は必読書といっていいかもしれない。
話が壮大だけにコメントできる部分も多岐にわたるが、本書での主張を大筋で認めたうえで、気になった(というか人文系の人には気に障ったというべきかw)部分について少し書いておく。
まず言語的相対論に対する反論を述べた部分でピンカーは以下のように主張する。

言語は牢獄だという考えは、あらゆる陰謀説と同様に、言語の力を過大評価することによって主体をおとしてめている。言語は思考を一つの頭からとりだして別の頭に入れるために私たちが使うすばらしい能力であリ、さまざまに転用することによって思考の進展を助けることができる。しかし、言語は思考と同一ではないし、人間をほかの動物と区別する唯一のものでもなければ、あらゆる文化の基盤でもなく、逃げられない牢獄でも、強制力のある合意でも、私たちの世界の限界でもなく、何が想像可能であるかを決定するものではない。
(中)p. 136

この主張は大筋において何ら反論はないが、この議論においてニーチェウィトゲンシュタインの哲学者からサピア、ウォーフの言語学者デリダなどの脱構築論者の意見を一変に扱うのはかなり乱暴である。確かに20世紀の思想の大半がそれこそ「言語という牢獄」に自らを監禁させてきたとも言えなくはないが、それらの思想はそれほど一貫してはいない。ウィトゲンシュタイの写像理論的な世界把握は別にサピア=ウォーフ仮説的な構築主義的相対論に陥ることなく、素朴実在論的にも捉えることが可能だし、脱構築論者たちが主にその主張を呈示するのは文芸批評的な空間においてである。確かに自らの思想に奢り境界を踏み越え、社会や世界の実体的なあり方に疑念を挟むような論者は大いに反省をすべきであるが、それらを一緒くたに誤っているというのは乱暴に見えるのである。小説家のウォーカー・パーシーの「脱構築主義者とは、テクストは指示対象を何ももたないと主張しておきながら、妻の留守番電話に夕食はペパローニ・ピザにしてくれとメッセージを残す学者である」というジョークを引用するピンカーは、彼の文章のユーモラスな饒舌さが伺えるのではあるが、ここで言われる「テクスト」や「エクリチュール」、「パロール」、「ディスクール」といった言葉の違いを正確に把握しているのか疑わしいのである。「夕食はペパローニ・ピザにしてくれ」という電話のメッセージはそれこそ脱構築主義者が言うテクストではない。逆に、妻がそれをメモ書きにして、そのメモが風に乗って見知らぬ誰かのところへ届けられるという事態を想像すれば、そのような「テクスト」の指示対象という問題が顕在化するとも言える。
またポストモダニズムやカルチュラルスタディーズで使われる「イメージ」という言葉に対してピンカーは「私たちが記憶から構築するそれらの心的イメージと、写真や絵画のような物理的イメージの区別をあいまいにすること」批判する。確かにそのような言葉の濫用がないわけはないが、それらの研究で言われている物理的イメージと我々に宿る何らかの対象のイメージ(この意味ではそれは想像的な何かであって必ずしも画像的なものに限らない)には相互作用が存在するということはまったく正しい主張である。そうでなければある一枚の写真によって政治的な世論が動いたり、未知の他者に対する表象(物理的イメージ)が往々にしてステレオタイプ的である理由がわからない。要するに、確かに「イメージ」という言葉は非常にあいまいに使われてきたが、カルスタ、ポスコロなどによる批判的なメディア研究や表象に関する理論が荒唐無稽なわけではないということだ。
最後に道徳に関わる部分についてであるが、よくムーアの「自然主義的誤謬」をヒュームの法則のような「事実から価値を導く誤謬」と同一視する使い方が頻繁に見受けられるが、その一つの発生源がピンカーのこの本にもあるようだ(p. 31)。このムーアの「自然主義的誤謬」の解釈の妥当性はともかく(くわしくはhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E7%9A%84%E8%AA%A4%E8%AC%ACとかhttp://www.nagaitosiya.com/b/moore.htmlを参照)、ピンカーは一方で進化論的事実から道徳的な価値を判断することを批判しているが、他方においては道徳的感情が進化論的な淘汰によって発生したという議論をしている。互恵主義的利他行為や自尊心や恥といった道徳的感情が進化的に発生したのは確かであろうが、それらが道徳的であるというのは進化論的事実からは主張し得ないわけであるのだからややこしい。その辺にどうやって折り合いをつけるのかが定かではないように思えた。
全体的にいって、ピンカーの話し振りは饒舌でやや大風呂敷なところはあるが、大筋の主張はうなづけるものばかりであり、その議論の範囲の広さと知見の豊かさには圧倒される。人文系の学問を探求するものが、とりあえずの科学的常識として知っておくべきことの端緒となることは間違いなかった。