Peter Kivy‘Sibley's Lasr Paper’の要約と音楽理論の理解とその意味

Aesthetic Concepts: Essays After Sibley
Emily Brady Jerrold Levinson
0198241011

に収められているPeter KivyのSibley's Lasr Paperを読了。
ピーター・キーヴィについてはhttp://philosophy.rutgers.edu/FACSTAFF/BIOS/kivy.htmlを参照。
この論文はシブレイへのトリビュート論集であるこの本の中でもとりわけ、トリビュートの度合いが大きい。というのも、とシブレイは友人であったようで、論文の冒頭はフランクとファーストネームで彼の名前を呼んでいる。以下、要約。

全体の構成

タイトルであるSibley's Lasr Paperとは生前に発表されたシブレイの最後の論文Making Music Our Ownを指している。この論集は基本的にシブレイのAesthetic Conceptsの議論を扱ったものが多いが、キーヴィは自身が音楽を研究していることもあり、この論文を選んで議論している。
論文はMaking Music Our Ownでのシブレイの議論をまとめた前半と、それへのキーヴィーの批判的コメントである後半に分かれている。Making Music Our Ownに関してはhttp://d.hatena.ne.jp/shinimai/20070114/p1で要約したので、前半部はごく簡単にまとめる。

シブレイの議論のまとめ

Making Music Our Ownでのシブレイの議論の大枠は以下にまとめられる。

  1. 「音楽外的(extra-musical)用語、比喩的用語」と「音楽的用語、文字どおりの(literal)用語、専門的用語」の区別
  2. 音楽の記述妥当性
  3. 音楽外的記述の音楽的記述に対する優位性

2に関してはキーヴィーは全面的にシブレイの議論に賛成しているが、1の分類、3の主張に関しては反論がある。ただし、これらの議論から結論されるキーヴィがシブレイのメイン・テーゼとしてあげる以下の主張に関しては同意している。それは以下のようなものである。

  • 音楽を理解することは、それに記述を与えることによって確証される。

同じようなことをキーヴィは次の本の中で主張している。

音楽を理解することは、そのとき、重要な部分でそれを記述することができることのように思われる。よって、あなたは音楽を理解するか、という問いに断言的に答えるための証拠として、私は適切な、そして説得的なその記述を受入れる。
Music Alone: Philosophical Reflections on the Purely Musical Experience

この音楽の理解に関する言語的記述の重要性のテーゼには二つの問題点がある。

  • 音楽の素人は記述を与えることができないが、これは理解していないことになるのか?
  • 音楽を鑑賞しているときは常に言語を頭に意識してなければいけないのか?

シブレイとキーヴィはそれらに異なった解決を行っているが、ここではシブレイの議論だけに触れられる。
1に関して、記述を与えることができなくとも、与えなくとも記述に同意したり、却下したりはすると主張する。これにはキーヴィも同意する。
2に関して、シブレイの師であるギルバート・ライル的観点から「何かがφであると考えること、そして同様に、認識すること、理解すること、聞くこと、そしてそれをφとして経験したり、見たり、聞いたりすることは、どのような言葉も言ったり、考えたりする必要がない」と主張する。これはキーヴィに言わせると、シブレイは「機械の中の幽霊」に取り付かれており、現在なら音楽を聞く経験のもっと詳細な脳科学的な説明はできると主張している。確かにこの点は本論の大筋とは関係ないが、シブレイの極めて人間主義的な特徴をしてきしていると思う。シブレイの美的概念論の一番根源的な部分は人間/機械の区別である、というのが私の主張である。この点を前のコロキウムの研究発表で強く主張しすぎたのだが、西村先生には真っ向から反論された…それでも大本において私のシブレイの理解は間違ってないと今でも思っている。
話は逸れたが…、シブレイのこのテーゼからキーヴィはさらなる二つの論点を取り出す。それはシブレイが言う「純粋主義」、つまり「本物の記述は純粋に音楽的なものであり、リテラルなものであるべきで、借りられた用語ではない」という立場への反論、「音楽を記述するための比喩的、音楽外的用語と呼ぶものとを必要とし、そのような用語においてそれを記述する能力は正確に音楽的鑑賞であるものを構成し、もしくは少なくともその存在のシグナルであるということ」と、それによって「断定された秘教的で孤立的な音楽の本質」を論駁し、音楽と他の経験の間の連続性を訴えることである。

キーヴィの批判的コメント

さて以上が大体のところのMaking Music Our Ownでのシブレイの議論であるが、これをキーヴィは以下の三つにまとめる。

  1. 音楽学者と音楽理論家によって用いられる絶対音楽の専門的、文字どおりの記述は音楽鑑賞に重要ではない。
  2. 音楽外的記述の適切さは音楽的純粋主義への反論である。
  3. 音楽外的記述は絶対音楽の鑑賞と愛の説明を我々がするのを助ける。

この三点に関してキーヴィは論文の後半において批判的コメントを提出するのである。

音楽理論の理解と鑑賞的意味

まず1に関して、キーヴィとシブレイは真っ向から意見が食い違っている。シブレイが専門的記述の鑑賞での役割を低く見積もるのに対して、キーヴィは「音楽理論的記述は音楽的享受を拡大し、深める非常に力強い手段である」と主張する。
この著しい立場の違いを、キーヴィはシブレイの初期の論文Aesthetic Coceptsでの美的/非美的の区別と、Making Music Our Ownでの区別の間の連関性を指摘することによって説明する。要するに、Making Music Our Ownでの文字どおりの音楽的用語と比喩的、もしくは音楽外的用語の間にしている区別は、Aesthetic Coceptsでの非美的用語と美的用語の間の区別の特殊なケースであるといことだ。その理由として、キーヴィは以下の二点をあげる。

  • シブレイが挙げる比喩的、もしくは音楽外的用語の多くは、Aesthetic Coceptsで美的用語として記述されたような用語の種類である。
  • 音楽の文字どおりで専門的な記述が鑑賞において重要ではない理由としてシブレイが挙げるのは、それが趣味や美的感受性を必要としない用語、つまりはAesthetic Coceptsでの非美的用語であるからだ。

よって、キーヴィは以下のようにシブレイの音楽理論的記述への低い評価を彼の美的概念論から導き出されたものとして説明する。

(専門的記述も含む)音楽の文字どおりの記述と比喩的、もしくは音楽外的記述の間の違いは、多かれ少なかれ、非美的/美的の区別の特殊なケースであるのだから、そのときその結論はシブレイに音楽理論的記述は鑑賞の点で不活性であるに違いないと強いられる。というのも、非美的であるなら、それらは趣味や美的感受性なしに、つまり、鑑賞的能力なしに、適用されうるからだ。実際に、たとえ聾の人々でさえ――音楽的音は当然、音を全く知覚することができない人々――シブレイの観点からすると、音楽理論的用語を適用することを学ぶことができるのだ。

以上のようなシブレイの結論を、キーヴィは「音楽理論の理解とは何か?」という観点において反論する。音楽理論は紙の上だけで学ばれるものではなく、常に聞く事をともなって学ばれるのであり、聾の人々が紙の上で音楽理論を学んだとしても、その理論の意味するものは聞くことができる人とは異なったものであるだろう。そして、本質的な問題は、聾者が音楽理論を学べるかどうかではなく、聞くことはできるが、音楽を聞くことができない人、それの鑑賞を持たない人が音楽理論から何を作り出すのだろうかであるということでだとキーヴィは主張する。キーヴィはケンダル・ウォルトンの「分析は鑑賞――人がある楽曲を聞くことがいかなることかを説明すること、もしくは理解することと連続しており、それを聞くことの経験から分離していない」という主張を引用しながら以下のように主張する。

彼や彼女は(もちろん)その音を聞くことはできるだろうが、それらの記述が言及している志向的対象を聞くことができない。その場合であれば、シブレイには失礼だが、彼や彼女が理論のクラスで学ぶであろうことは何であれ、それは音楽理論ではないだろう。彼や彼女は音楽理論を「知らない」であろう。

そして彼は例を挙げながら、事実として音楽理論の最終法廷は耳であり、音楽理論的記述のもとで音楽を聞く事は、それを比喩的、音楽外的記述のもとにおいて聞く事と同じくらい、生き生きとした音楽的経験を持つことであると結論する。

音楽的純粋主義と絶対音楽の享受

次にキーヴィは2と3について同時にコメントを提出する。
まず2「音楽外的記述の適切さは音楽的純粋主義への反論である。」で言われる純粋主義とは何かという問題がある。シブレイはそれを「音楽はいやしくも記述されるなら、純粋に音楽的用語よってであり、音楽外的記述は不適切である」という考えとして提出しているが、この定義はキーヴィに言わせると厳密すぎである。さらに「もし我々が完全な音楽的経験に忠実であるなら、音楽外的用語、比喩的用語そして悪名高い表情的用語さえも、我々の音楽の記述において使用できるし、されるに違いない」と主張してきたキーヴィ自身が、これまで音楽的純粋主義として扱われてきたことを考えると、純粋主義とは音楽の記述するための用語において規定されるものではないように思われる。そのためキーヴィ自身は音楽的純粋主義を以下のように規定する。

  • 絶対音楽はいかなる意味論的、もしくは表象的、物語的内容も持たない音の構造であり、表層であるという考え。

もしも純粋主義がこのように規定されるなら、絶対音楽の音楽外的用語における記述は、それに内容を帰属させているのではなく、音楽的構造と表面を十分に記述するため、言語のリソースの全てを使っているだけであるため、許容され得る。そして、そのときキーヴィが知る友人としてのフランク・シブレイもまた純粋主義者であったのだ。
そしてこのようなキーヴィが提出する純粋主義者と対立する立場は、シブレイが主張するような音楽を音楽外的な用語で記述するものではなく、絶対音楽が音楽外的記述を受け入れるなら、それは意味論的もしくは表象的内容を持つに違いないという考えである。よってここでの対立は音楽を記述する用語の種類の問題ではなく、「絶対音楽は絶対か、否か?」、つまりは「それは表象的、物語的、もしくはいかなる種類の命題的内容を持つか、否か?もしくはそれが純粋に音楽的構造を持つか、否か?」という対立であるのだ。
この絶対音楽の絶対性に関する論争はこれまでも何度も取りざたされてきた。この問題には、キーヴィが主張する以下のような非純粋主義的立場と純粋主義的立場がある。

  • 他の芸術はそれら作品の表象的もしくは物語的、意味論的内容と深く関わった過程において鑑賞され、評価されてきたので、同様なことが音楽である場合でもあるに違いない。
  • 絶対音楽はどのような内容も持たない。

立場の妥当性はともかく、それぞれの立場は絶対音楽の享受に関する難問にぶち当たることになる。非純粋主義者は絶対音楽の我々の享受を真に説明する詳細な内容を明らかにする解釈を作り上げる必要があり、純粋主義者はいかに我々の純粋に音楽的な表層と構造の享受と鑑賞が、他の表象的芸術と同じくらいの強さと深さに到達できるのかを説明しなければならない。
その難問に対して、キーヴィはシブレイの論文の以下の結語はその解答を示唆していると言う。

だが結局、我々は自然と音楽外的なサウンドを同様なやり方で特徴付ける。これは少なくとも音楽と他のサウンドの間にいくつかの連続性があることを指摘し、そしてよって、音楽の断定された秘教的、孤立的本質に疑問を投げかける。

つまり、音楽的表層と構造が「人間的」そして「自然的」諸質を所有し、このことが表層と構造が持つだけであるものを越えて、我々に音楽の魅力を付け加えているという点において、シブレイの議論を絶対音楽における我々の享受を説明する可能性がある第一歩として評価できる。

私のコメント

本論は最初に述べたとおり、極めてトリビュート的なもんで、論文としての完成度はあまりないように思える。キーヴィの音楽に関する議論を知るのであるなら、上述したMusic Aloneにあたるべきであろう。
それでもシブレイのMaking Music Our Ownというこれまた問題が多い論文の解題としては有用な指摘は多い。このシブレイの最後の論文を読んだものなら誰でも、シブレイにリテラル/フィギュラティヴという区別の曖昧さと、後者の過度な称揚に戸惑うであろうが、キーヴィが行った分析にもあるとおり、これはシブレイの美的概念論の非美的用語/美的用語の区別とパラレルなものである。私はこのことから、シブレイが主張する美的用語とは言語の比喩的な使用のことであると断定したが、それはコロキウムで西村先生の猛反論にあった…。たしかに言語の比喩的な使用という言葉使いは語弊があるのは間違いないが、このキーヴィの論文を読む限り、自分の読みが間違っているよりも妥当であることを再確認した。明らかにシブレイの美的概念論の根幹には、機械的なルールによって適用できる非美的用語と人間しか適用できない美的用語という対立があり、この点ではキーヴィが主張するとおりシブレイは「機械の中の幽霊」に取り付かれていると言って良い。
さらにこのシブレイの美的概念論の根幹にある思想はある意味でその議論の限界を示すことになる。それはシブレイのAesthetic Conceptsという挑戦的な論文が登場した当初においても、ジョセフ・マゴーリスなどによって批判されていたことであるが、彼が非美的用語として提出する言葉の中にも明らかに「美的」なものに関わる言葉が存在することである。マゴーリスがそれを「フーガ」という音楽的用語において指摘していたのも示唆的であるように、そのことは殊更、音楽を記述する際に非常に明確に現れる。つまり、音楽の記述は他の芸術作品の記述に比べて高度であり、キーヴィが言うとおり「記述するのが難しいことで悪名高い」のである。確かに機械的なルールによって適用できるか否か、という点に関して西洋の音楽理論的記述は機械的なルールによって提出できるであろう。インプットとして楽譜をアウトプットとして音楽理論的記述(形式、和声構造、シェンカー分析とか)を提出するコンピュータは、それこそ音楽を聞くこともなく音楽理論的記述を提出できるだろう。
この点において、本論でのキーヴィの音楽理論の理解に関する議論は注目に値する。確かにコンピュータは音楽を聞くことなく、音楽理論的記述を為すことができるだろう。しかし、そのときコンピュータは音楽理論を理解しており、その音楽を鑑賞しているのか?キーヴィはそれに直感的に反論しているが、これは心の哲学に関わる重要かつかなりハードな問題に違いない。ここで議論するのは無理があるが、例えば有名なサールの「中国語の部屋*1の思考実験をアレンジして以下のようなヴァージョンを作れるのではないだろうか?

西洋音楽理論を学んだこともないし、標準的な音感も備えていない男がある部屋に閉じ込められる。その部屋には音楽が流されるスピーカーとそれをインプットとして楽譜が起こされるコンピューターがある。さらに初心者にふさわしい音楽理論書があり、彼は流された音楽をモニタによって視覚的に確認して、小さな穴から外にその音楽の音楽理論的記述を提出する。さてそのときこの男は果たして音楽理論を理解しているのか?また彼は音楽を鑑賞しているのか?

この思考実験から得られることは何かはとりあえず置いておき、本論でのもうひとつの重要なポイントを指摘する。それはキーヴィの主張する「音楽的純粋主義」、もしくは「絶対音楽」という概念の妥当性である。この議論自体は特別目新しいものではないが、言語哲学的観点から絶対音楽という概念を見たとき、その記述はその内容を表すのではなく、音楽的知覚の志向的対象を聞くことに従事するという考えは非常に重要である。カイヴィーは本論の議論対象を絶対音楽に限っているように思われるが、音楽一般においてもその記述は明らかにその内容のようなものを言及しているのではなく、音楽それ自体を言及している。もちろん、歌詞に関する記述も存在するだろうが、それは純粋な意味で音楽の記述ではないだろう。だが、そのとき「音楽の意味」とされるものは何なのであろうか?
キーヴィは非純粋主義的立場が、絶対音楽のカノンからナラティヴで、イデオロギー的で、表象的な内容を抽出する多くの増加する戦術が存在することに言及している。それは、おそらく昨今では目新しいものではなくなった、音楽作品の社会的意味の分析を示すものであるだろう。キーヴィはそれへの立場を本論では明確に語ってはいないが、この音楽の根源的な無内容性とそれと対立するような音楽の意味を主張する言説の間の関係は何であるのか?ここでは詳細を語れないが、この問題は芸術作品とその意味に関わる根源的なものであるだろう。