Frank Sibley‘Making Music Our Own’From Interpretation in Music, ed. Michael Krausz, Oxford: Clarendon Press, 1993.

Approach to Aesthetics: Collected Papers on Philosophical Aesthetics
Frank Sibley John Benson Betty Redfern
0199204136

に収録の第11章。「音楽を自ら自身のものにすること」とでも訳せばいいか。シブレイが音楽を論じた重要な論文である。ただその語り口はちょっと及び腰な感じがした。音楽を分析美学的に語るのはどれくらいあったのかはわからないが、「音楽の断定された秘教的、孤立的本質に疑問を投げかける」と論文を閉じていることからも、90年代になってもやはり音楽を語ることは他の芸術を語る以上に難しかったことが伺える。以下全体の要旨。


この論文の主張はシンプルなものである。以下に命題的な形で書く。

  • 音楽の比喩的な(figurative)記述こそ、我々が作品の性格や質を掴み、認識し、捉えること、それらをそれらとして(for what they are)鑑賞することの助けとなる。

そして、この主張が対決する論としては以下のようなものがあげられる。

  • 音楽は記述可能ではなく、言語はそのような非言語的で独特な何かを掴むことができない。
  • 音楽はいやしくも記述されるなら、純粋に音楽的用語よってであり、音楽外的(extra-musical)記述は不適切である。

音楽の記述とは

まずシブレイは問題を一般化するためにさまざまな音楽の記述を例としてあげる。その際、音楽の記述においてしばしば問題となるような「感情、感覚(emotion、feelimg)」に関する言葉はあえて無視する。例えば、「あの音楽は悲しい」というような表現は従来、分析美学の中で「その音楽が人を悲しくさせる」のか「その音楽自体の性質、特徴として『悲しい』のか』などという議論が行われてきた。これに対して、シブレイはそのような感情に関する言葉を特別視することなく、音楽の記述一般を基本的にその音楽の特徴を表すものとして理解している。
さて、これらの音楽の記述には果たしてどのような役割があるのか?一つには以下のように言われることがある。

  • 音楽の記述は、我々に「解釈」「理解」もしくは音楽の「意味」を掴む助けとなる。

しかしここで言う「解釈」「理解」「意味」とは一体何のことであるのか?シブレイによると、「あなたはこの音楽を理解しましたか?」とか「あなたのこの音楽の解釈は何ですか?」という質問は変な質問のように思われる。そのため、この命題を以下のように改良する。

  • 音楽の記述は、我々が作品の性格や質を掴み、認識し、捉えること、それらをそれらとして(for what they are)鑑賞することの助けとなる。

つまり、音楽自体を理解したり、解釈したりするというわけではなく、その音楽が持っている性格や質を我々は認識しているのである。シブレイは音楽の記述の役割を比喩的に音楽に「顔を与える」(give a face)とも言っている。そしてこのこと自体は音楽に特殊なことではなく、その他の自然物に関して「我々は、景色を厳しいとか微笑んでいるとか、小川がスキップするようだとか跳ねているようだとか、解釈するのではなく、そういうものとして見るのである。チャップリンの歩み、ブラッドハウンドの顔つき、マッターホルン、それぞれは識別的な性格を持っているのであって、意味を持っているのではない。」と主張する。要するに音楽の記述においても、それが表すのは音楽の「意味」といったものではなく、その音楽が持っているメロディー、ハーモーニー、リズム、サウンド、テクスチャーといった特徴なのである。

音楽の記述の妥当性

さてこのような主張に対して当然想定される反論は上述した

  • 音楽は記述可能ではなく、言語はそのような非言語的で独特な何かを掴むことができない。

のような音楽の記述不可能性に関する主張である。だがこれはシブレイに言わせると記述の本質の誤解から生じることであり、「モナリザの微笑みは見られるのみであって、聞かれたり、触れられたりしないが、そのことはそれが記述されることを妨げない。同様に、音楽は聞かれるのみであるが、そのことはそれが記述されることを妨げない」と反論する。確かに、演奏された音楽はあらゆる点で確定的で、どのような記述もこの点では正確ではないという「正確さ」(exactness)、音楽のどの部分も複雑で、ほとんどは継続しており、同時に全てを記述することは不可能であるという「完璧さ」(completeness)、この2点においては音楽の記述は音楽それ自身に比べて不十分であることは間違いない。だがこの2点は記述に関する本質的な事柄であって、何も音楽の記述に限った話ではないのだ。絵画であれ、風景であれ、人間の顔であれ、それを記述する際にこの2点は到達不可能な限界なのである。

リテラルな記述と比喩的な記述

以上、音楽の記述の妥当性については十分に認められた。そのような音楽の記述の例をシブレイは以下のように分類する。

  • 文字どおりの/リテラルな(literal)記述
  • 専門的(technical)記述
  • 比喩的(figurative)記述

このような分類は曖昧なもので、シブレイはここではよく確立した記述が比喩的と見なすべきか否かといった問題には踏み込まない。それよりむしろ、文字どおりなものと比喩的なものに注目して論じていく。そして音楽の記述に関して「純粋主義(purist)」と呼ばれうる立場として以下のような主張を取り上げる。

  • 音楽はいやしくも記述されるなら、純粋に音楽的用語よってであり、音楽外的記述は不適切である。

つまり音楽の記述は比喩的にされるのではなく、音楽の記述は純粋に音楽的で、リテラルなものであるべきだ、という主張である。しかしここで問題になるのは何がリテラルな記述であるのかということだ。
リテラルな記述としてシブレイは以下のような例をあげる。

  1. 純粋に聴覚的、もしくは構造的な多くの専門的な用語(Cメジャー、8分の6拍子、ペンタトニック、ソナタ形式
  2. 専門的ではない聴覚的用語(うるさい、静かな)
  3. 非聴覚的な現象と共有されるいくつかの用語(augmented、ゆっくりした、くり返す)
  4. 純粋な、もしくは仮の聴覚的用語(ring, gallop, murmur)〔専門的な記述においては〕

さてこのようなリテラルな音楽の記述は一体どんな役割を果たすだろうか?確かに、それらは作品の構造を分析するために使用でき、それらへの注意が、作品への我々の観点を変化させたり、そうでなければ我々が見逃していただろう諸性質を明らかにしたりすることはあるだろう。だが、シブレイはこのようなリテラルな記述だけでは、音楽の「性格」や「質」と読んできたものを文節化(articulate)できないと主張するのである。そして極めてリテラルでドライな記述の例をあげながら、そのような記述は、適切に訓練をされたものなら、音楽を聞かずとも楽譜を見ることによってのみ与えられるものであり、対比的に専門的な記述ができないが、比喩的なやり方で音楽を記述することに駆り立てられたリスナーは彼らの本当の理解と鑑賞を我々に確信させるだろうと主張することで、リテラルな記述の限界と比喩的な記述の可能性を主張するのである。
そして実際に比喩的な記述が音楽家や批評家などによって使われていることを言及しながら、音楽に関して中心的に訴えている多くのことは、逆説的に、本質的に音楽外的であるという大胆な主張を行う。そのような比喩的な記述が難しく、鑑賞と言語の習熟、想像力のコンビネーションを要求することを認めながらも、それが音楽に限ったことではなく、その大胆な主張は、従来想定されてきた音楽の「孤立性」や「純粋性」、そしてそれと経験の間の「非連続性」を問い直すことによって、音楽的理解の「神秘」を減らすだろうという。

音楽的経験の言葉の非介在性

さてそのように音楽の比喩的な記述の積極的な役割をシブレイは強調するのだが、その主張の妥当性はともかく、ここにもう一つの問題が生じるのである。それは、人が真摯に「それは私がその音楽を聞いていたやり方を記述する」と言えるとしたら、人は以前にそれらの言葉を心に抱いていたに違いないだろうという問題だ。つまり、ある音楽にとってある記述の適用が認められたならば、それをその記述の適用以前に聞いていた者もまた、その記述を心に抱いてたはずだというものだ。これに対して、シブレイは自らの師であるギルバート・ライルの説を援用することで以下のように反論する。何かがφであると考えること、そして同様に、認識すること、理解すること、聞くこと、そしてそれをφとして経験したり、見たり、聞いたりすることは、どのような言葉も言ったり、考えたりする必要がない。つまり、音楽や絵画などさまざまなものの経験それ自体には、言語といったものは介在しない、だがそれを経験したように記述するための言葉を捜し求めるだろう。よってこの説から言うと、我々はどのような用語においてもそれを経験すると言うことができないならば、そもそも専門的、音楽外的、リテラル、比喩的といった用語の違いも問われなくなるのである。

比喩的な記述の重要性

以上のように、もし経験することが言葉を必要としないなら、シブレイの記述への強調は説明が必要である。何かをある性格を持っているものとして知覚することは、様々な能力によって行うことができる。だれかはある作品を完璧に口笛でき、オーボエがどこで入ってきたかを正確に覚えていて、ある演奏が他の演奏と違っているところを指摘でき、演奏の正確なイミテーションができるであろう。しかし、シブレイはこれらの何事も、そのような人間が耳と記憶が完璧にまねできる以上であることしか示さないと主張する。しかし、真摯に与えられた、もしくは受けとられた記述は主要なもののなかで、もっとも決定的で、最も明示的な、音楽の性格の理解の指摘であると彼は主張するのだ。

コメントと感想

以上が大体のところの要旨である。最後に記述の主観性について少しだけ言及しているが、全体としてどのように関連するのかいまいち不明確である。全体を要約してみてもわかるが、この論文の彼の動機である「音楽の記述の脱神秘化」を強くアピールするために、どうも主張が極端な方向に走りがちである。音楽の記述の妥当性を論じるあたりは非常に論旨が明確であるが、リテラルな記述と比喩的な記述の二項対立から後者の優越性を訴えるあたりはかなりあやしい。実際に、この点に関しては
Aesthetic Concepts: Essays After Sibley
Emily Brady Jerrold Levinson
0198241011

の論集の中でPeter Kivyが批判しているようだ。
さらにライルの理論を参照するあたりでは、そもそものリテラル/フィギュラティヴの対立が崩れていくことをシブレイは適切に扱えていない。私見ではこの論を進めていくと、必然的にすべての言語が比喩的なものとして考えられるようになるだろう。例えば私が見ている「このリンゴの赤さ(クオリア的な印象としての)」は決して文字通り「赤い」わけではないとかいう風に。しかし、あきらかにこれは極論であろう。重要な点は、ライルの論の妥当性はともかく、リテラル/フィギュラティヴの対立はかなり連続的なものであり、その違いを明確にするためにはある特定の言語を扱う集団、つまりは文化的な視点がどうしても必要なのである。以前、うちの研究室を訪れて発表をしていったNick Zangwill氏*1も認めていたように、音程の「高さ」、「低さ」といった極めてリテラルな言葉ですら、そのような音程の概念を持たない文化にとっては比喩的な言葉なのである。
さてこのようなリテラル/フィギュラティヴという対立項の曖昧さを示唆しながらも、シブレイが極端に比喩的な記述の可能性を評価していたのはいかなる理由によるのであろうか?もちろん、これは彼自身の反エリート主義的立場から発せられたものでもあるが、比喩的な記述と音楽の再現前化(彼自身はイミテーション、コピーと言っている)を対比させつつ、前者にこそ音楽の性格や特徴の理解、つまりは美的な経験の理解があると主張するあたりは、ライルの心の哲学的な部分の影響をかなり受けているのではと感じられる。彼が比喩的な記述の可能性によって守りたかったのは、おそらく機械的なコピーや再現は我々人間が持っている美的な経験の証明にならないということのように思える。つまりは、音楽を聞き取り、それを正確に再現できるということが音楽の美的な経験を保証しないということである。彼は‘Aesthetic Concepts’の中で、心の哲学で扱われる哲学的ゾンビの美学版とでも言うべき美学的ゾンビ――視覚も、聴覚も、知性も十分であるが、感受性が欠落しているために、自ら美的用語を対象に帰属させることができない存在――を想定しているが、彼の美的なものという範疇にはやはり人間と機械の決定的な差を想定しているように感じる。そうならば、その適用のための条件を与えることができるようなリテラルな記述――つまりは機械的に識別可能であり、彼の言葉で言うと非美的概念――よりもその適用のための条件を与えることができない比喩的な記述――つまりはアナロジーによって理解するという極めて人間的な行為であり、彼の言葉で言うと美的概念――を比べた上で、後者に軍配を上げるのはなんとなく納得がいく。
機械に音楽が鑑賞できるか否かという問題は、心の哲学における美学的な問題としてはそれなりに論じられそうではあるが、自分としてはそこまでの議論に踏み込む気はない。ただここで図らずも論じられたシブレイのリテラル/フィギュラティヴの対立の曖昧さは批評的行為を考えるに有益であることは確かである。

*1:彼も上記のシブレイに関する論文を書いている。