Frank Sibley‘Particularity, Art, and Evaluation’From Proceedings of the Aristotelian Society, Supplementary Vol. 48 (1974)の要旨(前半)

Approach to Aesthetics: Collected Papers on Philosophical Aesthetics
Frank Sibley John Benson Betty Redfern
0199204136

に収められている第7章。これはフランク・シブレイの後期の代表的な論文であり、彼の美的概念(aesthetic concepts)の議論をより洗練させ、美的判断の特殊性とその用語の区別などを行ったものである。タイトルのParticularityはどう訳すべきか迷うところ。とりあえず辞書的に特異性とした。
本論の基本的な問題設定は「美的判断(aesthetic judgment)、査定(assessment)、評価(evaluation)と他(倫理を含む)の判断、査定、評価の差異は何か?」というものだ。本論の中でシブレイはjudgmentよりassessmentという言葉を好んで使っているが、その意味するところはほぼ美的判断であることは間違いないので、以後基本的に美的判断という述語を使う。おそらくカント的な含意が強いから、assessmentを使っているのであろうと推測できるが、間違いなくこれはシブレイの美的判断論といってもいい論文であろう。


-問題設定とストローソンの議論
さて上述の問題設定に対しては旧来の分析美学の間では以下のような説明がされてきた。それは「倫理的・その他の判断には一般的なルール・原則、価値の判断基準が存在するが、美的判断にはそのような価値の一般的判断基準が存在しない」というものだ。もちろんシブレイはこの説明には納得がいかないし、彼が分析したhandsome、elegant、gracefulといった美的用語は判断基準として機能するものだ。そのため彼はその説明をより厳密なものに改定したストローソンの議論を自らの相手として以下の議論を進める。
さてストローソンも上述の説明には納得がいかないので、彼が改定した命題は以下のものだ。

  • 倫理的・その他の判断には一般的な非評価的/記述的な判断基準があるが、美的判断にはそのような非評価的/記述的な判断基準はない。

その違いは明らかであるが、判断基準の評価性と記述性の問題なのである。ようするに「あの男は誠実だ」という倫理的判断には「彼は常に約束を守る」といった記述的な判断基準が有用であるが、「この絵画は美しい」のような美的判断においてはそういった記述的な判断基準は存在しない。あってもそれは例えば「この絵画は美しい、なぜなら全体の構図が非常にバランスがとれている」といった「バランスがとれている」のような評価的な判断基準なのである。
このような美的判断を正当化する言葉の評価性は「美的鑑賞の非概念的性格(non-conceptual character of aesthetic appreciation)として従来の分析美学においても主張されてきたものである。「美的鑑賞の非概念的性格」とは、ある対象に対して美的判断をなすときに、その根拠となる部分に記述的な概念を媒介することなしに我々はそうしている、要するに「この絵はなんにか曰く言いがたい理由によって美しい」としか言えないということである。さらにこの「美的鑑賞の非概念的性格」を強調する人々の多くは、その理由を「芸術作品の個別性」(individuality of the work of art)によって説明してきた。「芸術作品の個別性」とは、要するに個々の芸術作品にはそれぞれ特殊であり、同一の質や特徴を持った絶対的に異なった二つの芸術作品は存在しないという主張である。よって、芸術作品の美的判断を同一の質や特徴を概念化することによって行うことは不可能となるわけである。ストローソンもまた「何かを芸術作品として判断するが、美的な観点から判断しないと言うことは自己矛盾であるだろう」と主張することでこの二つの主張を論理的に結びつけるのである。
だがシブレイは美的判断の特殊性を「芸術作品」の概念と結びつけるこの議論に真っ向から反論する。曰く「ストローソンが言うように、何かを芸術作品として、だが美的な観点からではなく、査定することは、自己矛盾であるだろう、だが何かを美的に、だが芸術作品としてではなく、査定することは自己矛盾ではない」*1、そして「美的査定と他の種の査定の間に重要な差異があるなら、それらは美的判断のある特徴から帰結し、芸術の概念からではない」と。
そうならば、では一体、美的判断と他の判断の差異は何であり、何に由来するものなのか?ここからシブレイの自身の議論が始まるのである。


-用語の分類
まずシブレイは、ストローソンの議論の問題点を美的判断と他の判断の差異を、その判断基準の評価性と記述性の違いで説明することとし、記述性と評価性という側面から用語を以下のように*2整理する。

  1. 「端的に価値的な用語」(solely evaluative terms)
  2. 「記述的価値用語」(descriptive merit-terms)
  3. 「評価付加的用語」(evaluative-added terms)

1はnice、nasty、obnoxious、valuable、effective、ineffective、worthlessのような言葉であり、名前の通り端的に価値を表わしているような言葉である。このような用語がある対象Xに対して適用されるとき、その用語によって、Xが特徴的な質を持つことは断言されないが、Xがいくつかの価値を持つことは明らかである。ただし、Xが特徴的な質を持つことは文脈上に含まれている。なぜなら、ある対象Xがなんら他とは違った特徴的な質を持たないのにも関わらず、価値を持つようなことはあり得ないからである。つまり「端的に価値的な用語」とは、ある対象にどのような特定の性質を帰することにも、それらの性質であろうものをほとんど指示することもない、価値用語(merit-terms)なのである。
2は単に性質を名指すが、それが名指す物事の種類によって価値を構成する用語である。具体的にはsharp、selective、sphericalのような言葉であり、それぞれは剃刀、ラジオ受信機、テニスボールといったものに適用されるとき、価値を構成する。だが、これらの用語は基本的に記述的である。なぜなら、それらの適用の条件として、何らかの価値を示唆して人に勧めるなどということは含まれないのであるから。それらはある性質を名指すときに適用され、ある特定の空間において付随的に価値を構成するものである。多くの言葉がこの用語に分類されると思われる。例えば「赤い」や「硬い」といった非常に価値中立的で記述的な言葉であっても、ある特定の空間、例えばおいしいトマトの選別や便利な工具の条件といった場合には明らかに価値を構成するからである。
3は1と2の中間的な位置に属するものである。例としてはtasty、insipidがあげられるが、両者はある場合においては積極的な評価、他の場合おいては軽蔑的な効果、といったことなしにはめったに使われない。だが、前者はまた明らかに記述的にhaving a good deal of flavorを意味して、後者はhaving little flavorを意味する。つまり「評価付加的用語」とは、記述的な要素と評価的な要素を両方持つ用語であるがシブレイはこのような用語が存在することを認める一方で、その評価性を強く疑っている。例えばcourageous、honest、considerateのような倫理的な用語もこの用語に含まれると考えらているが、それらが2のように特定の空間において、偶然に利点や欠点を構成する性質を名指しており、基本的に記述的であることを否定する理由があるようには思えない。また、それらの評価付加的な用法は二次的であり、プレーンな記述的用語として使用可能である。さらに、それらの主要な使用が評価付加的なものであったとしても、文脈と適切な否認によって、記述的要素を意図していることを明らかにすることは常に可能であるだろう。噛み砕いて言えば「彼は非常に勇敢だ。でも別に誉めたわけじゃない。」というような発言が言語の使用から認められないわけではないだろう。


-美的用語の分類
さて以上の分類法によって美的用語はどのように整理できるだろうか。シブレイによればbeautiful、ugly、lovelyといったものは1に、balanced、unified、evocative、vivid、funny、witty、dynamic、movingは2に分類される。問題はelegant、graceful、handsome、pretty、ungainly、garish、hideousといった用語である。これらはある特定の性質の存在を指摘しているのであるので1ではないことは確かである。だがまた、それらがその基本的、起源的な使用(例えばその用語の習得の場において)評価付加的な言葉であることも確かである。だが我々が、人々が一般的に価値付けを行う性質Pを認識してしまったなら、我々は当のその用語を、中立的で純粋に記述的なやり方で使用できないというわけは無い。つまり、ある人物がどのような積極的な評価や勧告をなすことも無しに、何かがhandsomeとかgracefulとか認識することは可能でありでき、そしてそれをそのように呼ぶことは起こりうる。要するに、これらの用語はたとえ評価付加的であっても、純粋に記述的な使用は可能である。シブレイ自身はこれらの用語を2に分類する方向に傾いている。
よって以上のように、1に含まれるような例外を除いて、美的用語の多くは基本的に記述的なものであるといえる。そして、美的なものに対しても倫理に対しても、たとえその用語が評価付加的であっても純粋に記述的な使用は可能である。もしそうならば、ストローソンの「倫理的・その他の判断には一般的な非評価的/記述的な判断基準があるが、美的判断にはそのような非評価的/記述的な判断基準はない」というような主張によっては、美的判断の特殊性は説明されないことになるだろう。そこで再び、美的判断と他の判断の差異は何であり、何に由来するものなのかという問題が提起される。


-コメント
以上が前半部であり、後半また今度。
この前半部のハイライトである三つの分類は以前、コロキウム発表で行ったJerrold Levinson‘Aesthetic Propeties, Evaluation Force, and Differences of Sensibility’でも参照されたもので、レヴィンソンは自らの美的実在論のためにシブレイの美的用語の基本的記述性を援用している。その評価性、価値性ばかり注目される美的判断の議論をgracefulといった具体的な美的用語を考察することで、その判断基準の不確定性にメスを入れているのが重要だと思われる。やはり何処と無く「徳の倫理学」に似た議論を感じる。
言葉の持っている価値的意味と記述的意味の議論は多くの分野で問われるものだ。シブレイのある意味徹底した記述性へのこだわりは、その議論において強く実在論的傾向を帯びることとなるが、彼自身はそのような形而上学には足を踏み入れないようにしている。さらに基本的に記述的な言葉が、ある特定の空間において価値的意味が付与されるという議論は、この価値/記述という問題が意味論的な議論だけでは捉えきれないものであり、言語行為論的な議論、さらには社会学、文化研究の領域にまで問題が広がっていることを示唆する。個人的には、シブレイが言う「ある特定の空間において」(in a certain sphere)というものをブルデューの「界」「場」(champ)と関連付けて考えると興味深い。
起源的にある性質を名指す用語は、評価性を持っていると考えられる。なぜなら、その用語を名指すことで何事も評価することのない用語は端的に発する価値がないからだ。我々が用いる色の名前にしても、それらを言葉によって識別することは何らかの価値を持っていると言って良いだろう。ただし、そのような価値は、言語の多様性によっても示されるとおり、ある特定の空間において付与されるものだ。これは大きいものとしては文化、より小さなものとしてはブルデューが言う「場」であると考えられる。そのような「場」では、ある特定の性質が何らかの利点・欠点を構成することによって独特な用語が生まれる。その用語はその誕生においては本質的に評価的意味を持つが、次第にその評価的意味から距離を置いた記述的意味を表わすためにも使われるであろう。さらにそれの用語がその起源となる「場」から離れることにより、その評価性は失われたり、歪められたりするであろうが、確かにそれが名指す何らかの性質があることは確かである。
例えばキッチュという言葉を考えよう。*3一説によればキッチュというドイツ語は、英語のsketchを由来とし、1860年頃のミュンヘンで使われたものらしい。ミュンヘンを訪れるイギリス人やアメリカ人が油絵ではなく、粗悪なスケッチをお土産として買い求めたのに対して、軽蔑的に用いられたようだ。ところが時代と共にキッチュという用語がファイン・アートの文脈において積極的に用いられることになる。そして今では我々は特別に評価的な意味を含まずにこの言葉を使用できるのであるが、そのとき「キッチュ」によって名指されるのはその対象の何らかの記述的な性質の集合であると考えることはできるであろう。
このような価値的な言葉の誕生、価値の転換、記述的用法の確立といったことは多くの言葉にも見出されるであろう。そしてこのことを明らかにする仕事は、すでに言語哲学の領域を超えて、歴史社会学などの領域に踏み入れているのだ。

*1:私はこれには異論がある。「何かを芸術作品として、だが美的な観点からではなく、査定することは、自己矛盾であるだろう」とシブレイもストローソンも主張するが、ある芸術作品の経済的な価値を鑑定することは自己矛盾であるだろうか?芸術作品とその鑑定という意味からそれが単に論理的に矛盾であるとは言い切れない。そこに矛盾があるとするならば、社会的、文化的な概念(つまりはあるイデオロギー)としての「芸術作品」を考慮する必要がある。

*2:以下の三つの分類名はシブレイの論文から直接取ったものではなく、レヴィンソンが採用した名前によって整理した。

*3:以下のキッチュについては西村清和現代アートの哲学を参照