JASPM18(ポピュラー音楽学会2006年大会)@東大駒場キャンパス

駒場の銀杏はきれいでした。


今回は退官される佐藤良明先生が実行委員長ということもあってシンポジウムは、音楽評論家、ミュージシャンの和久井光司氏とミュージシャン、音楽プロデューサーの川上シゲ氏を交えてビートルズにまつわる親父ロック談義でした(笑)はっきりいって俺のようなポストパンク世代にとっちゃビートルズの重要性はザッパが言ったみたいにシャッグスくらいなんですけど、そういう「FUCK!」と中指突き立てることができる親父世代がいるのはいいことだとは思います。60年代のカウンターカルチャーの重要性は今でも確かに語られるべきだとは思いますが、それをビートルズの革新性といったひとつのバンドに回収する議論はやはりいまさらな感は否めない。質問者がしていたように、俺もそれよりむしろ、日本でのカウンターカルチャーを全体含むロック受容においてビートルズの位置とかのほうがもっと語られるべきだと思った。そのアイドル性からGSという特殊な音楽を生んだことにより、ビートルズの日本でのロックとしての正統性はかなりややこしい位置にある感じがする。そのせいで日本ではどちらかというとストーンズの方がよりわかりやすくロックらしいとされた感があるんじゃないかと。
あとそのポピュラリティと同時にレコード会社から距離を置いた創造性は発揮したビートルズにあたるような日本のバンドが何で生まれなかったかは問わなければならない問題だろう。トインビーがいう相対的自律性、つまり音楽産業はその市場の嗜好の把握が困難であるというような産業自体の構造ゆえにアーティストを完全に管理することなく相対的に自律したものとして管理する、といったアーティストと音楽産業側の関係は日本においてあまり成り立ったなかったのではないかと思われる。芸能界と音楽界(ていうかストリートていうかライブハウスていうかともかく「本物」の音楽が実践されていると思われる場所)の間でその音楽行為が分断されたGSという音楽の問題はいまだに興味深いものである。いまだに日本のメインストリームのアーティストはGS的な分断したミュージシャンシップを抱えているように思えるのだ。一方で日本の音楽の市場にあわせた芸能的な活動をしつつ、その裏では海外の音楽の「本物さ」に憧れている――言っちゃ悪いがリスナーを見下している感もする。とある機会に近田春夫氏のお話を聞く機会があったのだが、日本の音楽産業の保守性というか革新性のなさを嘆くのに共感する俺にはそう思えてきたのだ。


二日目は研究発表とワークショップ。研究発表は加藤綾子氏「日本の音楽ビジネスの現状分析」、谷口文和氏「音楽作成環境の私有化とミュージシャンシップの再編成」、栗田知宏氏「差別表現の受容過程にみる言説効果」などを拝聴。
音楽雑誌の言説分析をしていた自分としては、栗田氏のエミネムの差別発言に対するUSの音楽雑誌の評価の過程を追った発表は面白かった。周知のことであるが、白人ラッパーであるエミネムは今ではヒップホップとしてもロックとしても、その正統性をある程度確立している。その過程で彼の多くの差別発言(人種差別、同性愛差別、肉親への罵倒表現)は、当初かなり批判に晒されたが、次第に容認されることとなった。その過程をブルデューの〈場〉の理論のポピュラー音楽的改訂版である南田勝也「ロックの社会学」での議論をうまく用いる形で描いていた。
俺が思うにエミネムの戦略とは、多くのトインビーの分析したクロスオーヴァーと同じく、ある種の二枚舌を用いているものだと思われる。つまり彼の差別表現は、ヒップホップ〈場〉ではビーフやディスといったパフォーマンス性ゆえに本気のものだと見なされず、その〈場〉の論理に忠実であることを示し、ロック〈場〉ではアーティストのシリアスな表現として回収される。トインビーの演奏行為の4つの類型の分析で言えば、エミネムは直接モードと表現主義モードを巧妙に使いわけることで(その戦略性ゆえに結果としては再帰的モードといえるが、それ自体を気づかれることなく演じ分けることに彼の戦略の巧みさがある)二つの〈場〉での正統性を確立していると思う。ただ質問が出ていたように、音楽雑誌が彼の差別発言を容認するようになったとしても、反人種差別、反同性愛差別を訴える団体からだされた抗議がどうなったかについて、栗田氏は追ってなかったようだ。
この音楽的正統性と倫理的正当性の衝突する自体は非常に興味が引かれる。言うならばそれは美学と倫理学の根本的な問題であるのだ。ヒップホップ〈場〉やロック〈場〉の中核的構成要素である音楽雑誌が、その〈場〉での相対的な自律性を持ちうるとしても、倫理や政治が争われる他の〈場〉においてその音楽的正統性をどれほど主張できるのであろうか。エミネムの差別発言はその〈場〉の正統性ゆえに発せられたものとしても、それゆえに他の〈場〉の論理に変容を生むほど、音楽、ひいては美的なものの正統性は主張できるのか、否か?これはかなり興味深い。栗田氏はこの研究はこれ以上進める気がないというようなことを言っていたが、できればこういった形でもっと突っ込んでいってくれるとありがたい。まあ美学の領域でも議論すべきことなので、自分も今後考えて行きたいと思うが。


ワークショップBの「インターネット時代の音楽産業の変容と研究からのアプローチ」に出席。まず日本の音楽産業論の先駆者の生美俊雄氏がこれまでの音楽産業のネットを使った音楽配信の試みを概説し、次に自らも音楽配信事業に携わる油井誠志氏がこれからの音楽配信事業に求められる役割について提言し、最後に阿部勘一氏がポピュラー音楽の受容研究の立場から、音楽配信によって消費者の行動がいかに変化していくかを述べた。
全体的な議論の中心の一つとしては、ネットでのデータによる音楽配信という新しい音楽の流通の形式によって、レコード会社という存在はどうなっていくのかということだ。音楽産業に詳しい生美、油井両氏は、基本的にはその名称はともかく、従来のレコード会社が担っていた音楽生産、宣伝をする会社は必ず残るだろうと言っていた。つまりネットでの音楽配信という手段がいくら普及しようと、アーティストとからオーディエンスへ直接届けられるような流通のモードは主流にならないということだ。もう一つには、データの音楽配信が流通することで音楽のパッケージングがどう変容するのかという点も、従来のパッケージングは続けられるだろうと予想していた。
全体の感想からいえば、音楽配信というのはポピュラー音楽における一つの転換点であることは確かであるが、そのモードが従来のパッケージ文化を覆い尽くすということはなさそうである。両者が並立しながら存続するという未来が一番可能性として大きいと思われる。ただデータと物質的なメディアによる流通という二つのモードはそれぞれの特性ゆえに、そこで流通される音楽の種類において住み分けがなされると予想される。


追記:
このあとその予想をしてみたかったけど、ちょっと力量不足だしまた別の機会に考えてみます。ブクマが以外にも集まって嬉しい。gotanda6さんが言うとおり、「ハンブルグ時代の」ビートルズはたしかに矢沢という「ゴッドいわゆる神」を生んだんですが(笑)、矢沢にはビートルズの後半のような発展はないようです。これからあったら面白いですが。でも飲み会で聞いた話ですが、エイチャンのベースはかなり良いらしいとのうわさ。