読んだ

だいぶ前に読了したけど、書きそびれていた本。
意識とはなにか―「私」を生成する脳
茂木 健一郎
4480061347

ブクオフで購入した。認知系の話を少し読もうという手始めに、名前だけやたら有名だけど読んだことない茂木さんの本を。
うーむちょっと内容薄いんじゃないか。まあ昨今の新書のレベルからすりゃそんなもんだけど、ひたすら彼自身にとってクオリアというもを探求することの重要性が語られているけど、現象学や認知脳科学といったさまざまな学問が協力してクオリアという問題を取り組むことの社会的な意義や学問的意義についてはなんら説得力が感じられない。というかこの人は天然なのかもしれぬ。ただ自分の関心のあることにひたすら探求していたら、思いのほかメディアによって煽られて、調子にのっていろんなことやっちゃったってかんじなのかも。養老孟司斎藤孝とアカデミシャンの中でメディアに求められるまま乱筆してしまう人はおおいけど、茂木さんはマジ天然なんかも。おもしろかった話題はミラーニューロンとかその手の話だけど、ならもっとしっかりした認知脳科学の本読めばいいし、哲学的な話なら永井均大庭健でも読めばいい。


表現と意味―言語行為論研究
ジョン・R. サール John R. Searle 山田 友幸
4414120543

こちらはがちがちの哲学、言語学のお話。サールの言語行為論をまとめた本である。
オースティンが提唱した言語行為論を精緻に改定し、比喩やフィクションといった美学的にも重要なトピックを扱った論文は非常に参考になった。昔の美学者は往々にして比喩やフィクションといったものを意味論の中でしか捉えていなかったのだが、サールはそれらを言語行為論の枠組みで適切に分析している。まあ比喩やフィクションの話は実際には非常に常識的な結論に落ち着くので、さっぱりとしているが、それよりも「言葉どおりの(literal)意味」を扱った第五章が非常に啓発的だと思う。
通常、哲学者は「言葉どおりの意味」をその文が「空文脈(null context)」において有する意味と解釈するが、サールはそれに意義を唱える。例えばハンバーガーショップで「ハンバーガーを一つ下さい。ミディアム・レアで、ケチャップとからしをつけて、薬味を少なめで」と注文したとする。そしたら、店員はハンバーガーを、携帯用削岩機を使わないと壊して開くことのできないほどの堅牢な、体積一立方ヤードの透明なアクリル樹脂製のケースに入れて運ばれてきたとしてたら、その店員はその注文を言葉どおりに理解して、それに適切に応えたといえるだろうか。もちろん、言えないと思われる。つまり、このような単純な文に関しても、それが前提となっている文脈が必ず存在していると言えるのである。これは「言葉どおりの意味」が存在しないということにはすぐにはならない。ただそのような「言葉どおりの意味」は、その文の意味論的構造の内に組み込まれていないような背景的仮定の集合に相対的にのみ適用されるということだ。このほかにもサールは嫌がらせと思うほど突飛な例によって、「言葉どおりの意味」の適用が文脈に依存している例を数々あげる(ついでにもう本当にありえないくらい下手糞なサール自身の猫の絵とかでもって説明される!)。
このような意味論の限界はある意味で人工知能に関する議論を想起させる。つまりロボットに「ハンバーガーを一つ下さい。ミディアム・レアで、ケチャップとからしをつけて、薬味を少なめで」という注文に適切に応じることが可能なのかという問題だ。その「言葉どおりの意味」があらゆる可能な文脈において相対的にしか適用されないとするならば、プログラミングによってそれを完璧に作り上げるのは不可能のように思われる。逆に言うと、我々の言葉を通したコミュニケーションと心の動きはこれらの意味論によっては片付けられない複雑さを持っているということだ。言語行為論から心の哲学へという、昨今の流れがこのような問題系に属していたのがわかったのも良かった。
本題から外れるが、サールの全体の語り口はなんというか子供っぽい悪戯的精神に彩られており、それが無味乾燥でとっつきにくい言語行為論を非常に魅力的に語ることに貢献しているように思う。訳者もその辺を考慮してか、非常に詳細な訳注をつけているのでとても良かった。シャーロック・ホームズの住居とであったとされるベーカー街221Bに関するトリビアなどもわざわざ訳注をつけてくれているのは、もうなんか趣味の域としか言えないのかもしれないが。
ベーカー街221Bについては以下参考
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC%E8%A1%97221B