D・リンチとか見てる。

非ネット環境ってこともあってDVD借りてみてんだけど最近見た。
マルホランド・ドライブ
デイヴィッド・リンチ ナオミ・ワッツ ローラ・エレナ・ハリング
B000063UPM

ロスト・ハイウェイ
デイヴィッド・リンチ バリ・ギフォード ビル・プルマン
B00005V2MG

なんというか今まで見なかったことを後悔するような気分というか、俺のデヴィッド・リンチのイメージがちょっと歪んでいたというか。
なんにしろ思ったことは、リンチの映画ってのは要するに映画の持つ一番根底にある物語文法を崩して作られてるわけで、非常にマジメ?な作家だと思った。
その文法ってのは具体的には以下の三つ

  1. カメラの視点の不可視性と匿名性
  2. 映像のシークエンスと物語の時系列の一致
  3. 俳優と登場人物の同一性

いちばんわかりやすいのは2。これはちょっとこった映画とかでは常套手段で用いられるんで、ことさらリンチの特徴ではないけど、ロスト・ハイウェイでの円環構造では非常に意図的にやってる。要するに、我々は特に他から言及がないかぎり、映像のシークエンスに従って物語の時系列が流れると思っている。そうでない時はモノローグとかで指示することで、それが過去の回想シーンだよって説明してくれるわけだ。 でも実際にはシークエンスに従って物語の時系列が配置されている保証は映像自体にはない。というかシークエンスを時系列に読むことによって物語が生まれるとも言えるんだが、リンチの作品はそういった映像外から言及、特にモノローグを少なくすることで、映像シークエンスと物語の時系列が交錯して見る者を混乱させるわけだ。
それよりもリンチ独特のもんだと感じたのは3である。映画は、小説などとは全然違って、登場人物の同一性は徹底的に外見によって同定される。もちろん補助的にモノローグは使われるけど、その時も声の“見かけ”からは逃れられない。つまりは、極端に見かけを変えて一人二役をしない限り、同じ役者は基本的に同じ人物を演じるという当たり前の約束がリンチの映画では守られない。ロスト・ハイウェイでは主人公は変身するし、主演女優は二役を演じているのか、同じ人物を演じているのかわからない。マルホランド・ドライブでは二人の主演女優がいったい誰を演じているのかわからなくなってくる。これは小説というジャンルが内面を記述することで、多重人格という恐怖を扱ったのと似ていて、リンチの場合は映画という文法を逆手にとって多重相貌とも呼ぶべき恐怖を引き起こしているのだと思う。
で、一番重要というかもっとも根底にある映画の文法が1である。ようは我々は映画の物語に没入しているときには、その映像がカメラによって撮影されているということを忘れる必要がある。だがリンチの映画は、映像がカメラによって撮影されていることを意識させるような仕掛けが恐怖を生み出す。ロスト・ハイウェイにおいて、主人公は何者かによって撮影された自らの家の中の映像に恐怖を感じるのだが、そもそも我々が彼らの物語を映像を通して見ているという映画の物語構造の方がよっぽど不自然であり恐怖を感じさせる。マルホランド・ドライブでは主役のナオミ・ワッツは一体誰のために演じているのかわからなくなってくる。前半のベティと呼ばれる人物では、女優を夢見てハリウッドに来た女性を演出過剰なまでに演じているのだが、そのベティが演じる映画のオーディションのシーンは彼女が何者を演じているかわからないエロティックな恐怖がある。そして最後にはダイアンと呼ばれる他の女優に嫉妬するレズビアンの女優を演じることになる。
見るものが文法にしたがって物語を構成しようとすると、どこかでその文法が乱されてミステリーに陥るという感覚が何度も繰り返されることによって生み出される恐怖ってのが簡単なまとめだろう。そしてリンチの映画は、普通のホラーや怪談といったものがリアルを主張するのと逆に、ヴァーチャルであるということを意識させることにおいて恐怖を生み出す効果を狙っているのだろう。マルホランド・ドライブで、映画監督役の俳優が謎のカウボーイに「これはお前の映画じゃない。」って言われるのは、ある意味当たり前でこれはリンチの映画だから(笑)。そしてクラブ・シレンシオの前座で、「オーケストラはいません。全部録音です。」という台詞は、人間が何かを演じるということの不思議さを直裁に表現しているように思える。
そういった意味でリンチは非常にメタ的に映画を見ている作家だなと思った。