読んだり、

啓蒙の都市周遊
エンゲルハルト・ヴァイグル
4000006495

ドイツ啓蒙期の文化史を勉強の一環。出版業、道徳週刊誌、協会(VEREIN)などについてもっと調べたい。
道徳週刊誌と公共性の議論とかってハーバマスがやってるんだね。ていうかこっちの議論からコミュニケーションなんたらとか言い出したのか。そういう意味でハーバマスってメディア論的な部分があるのでは、ってこれはあたりまえなんでしょうか?
直接的には関係しないけど、出版、雑誌メディアと音楽批評の関係は大きな意味で私の研究において関連があります!私の研究!(笑)
で、それにも連関して次はこの本、買っただけで手つけてないけど。
教養の歴史社会学―ドイツ市民社会と音楽
宮本 直美
4000225472

これは社会学の院生らが開いてた、著者を交えた書評会に吉田さんが誘ってくれて知った本。めちゃくちゃ自分の興味関心と合致する本ではないか!アンテナの鈍さを痛感。特に音楽批評と教養の話は、モロにロックの話につなげれる気がする。
書評会とその後の飲み会は、社会学の院生の方々と交流ができて楽しかったです。なんというか一番濃い人々を見た気もするんだが…そういう意味で美学の院生の人々はよい意味でも悪い意味でも割合普通人が多い気も。まあ外から見ればそんなことないか。
批評の事情
永江 朗
4480420096

これは新居の近くのおしゃれ古本屋で見つけた一冊。
以前、ジャンルはともかくさまざまな批評家の列伝というか紳士録のような本があったらいいな、というか俺が企画してやろうかなとか考えてたけど、まさにそれがこれだった。すでにやられていたのね。
ただこれは90年代くらいから活躍し始めた人をセレクトして、若者のための論壇案内っていう趣旨の本なので、俺が期待した、小林秀雄から吉本隆明徳大寺有恒渋谷陽一などもう大御所になった人々は載ってないのよね。
ただ批評って言葉の曖昧さや、各ジャンルごとでこの言葉が使われる意味の違いを捨象して、批評とは何かと考える意味では非常にありがたい本ではある。基本的に批評って言葉で本を探したら、実際の文芸批評や音楽批評か批評理論についての本以外はなくて、そもそも批評とは何かを教えてくれる本はないからね。
内容は決してアカデミックな参考文献としては使えないかもしれないけど、大まかに批評と呼ばれる行為の内実に迫れる話もなくはない。出版界のタレコミ的なのも多いけど。
その音楽の<作者>とは誰か リミックス・産業・著作権
増田 聡
4622071258

最後はコレ。出版に際して、お手伝いをしたお礼で献本を賜ったのですが、ほとんど以前読んだことの内容の寄せ集め、いやリミックスですよね…だったので手をつけなかったんですが、今期の西村ゼミでジョセフ・マゴーリス(マーゴリスじゃなくてマゴーリスの方が正確な発音らしい)を読んでいたので、その参考として音楽の作品の同一性についての章を読んだら、以前わからなかったこの議論に対する有用性について新たな発見があったので今回書いとく。
以前、作品の同一性に関する議論の不毛さみたいなのを書いたけど(参照:http://d.hatena.ne.jp/shinimai/20060605/p2)、それはこの議論がいわゆる美学的欲望のようなもの、つまりは作品の本質的なものがあるっていう動機からなされたものが多いからなんだかなーって感じたから書いたのである。だって、「ある作品とその作品の翻訳の関係とは何か?」とか「ある曲の二つの演奏の関係は何か?」って言われても、普通の人には「いや、それはその作品の翻訳で、それらの演奏はその曲の二つの解釈によるもの」とかって考えれば(まあトートロジーだとみなし、単に我々は翻訳とか演奏とか作品という言葉の意味をその使用において理解していればよい)いいんであって、ことさら「作品の同一性」とかいう、なんだか怪しい問題を持ち込まなくても日常生活には困らないわけ。そこにわざわざ「作品の同一性」とかいう議論を持ち込むのは美学者の欲望(まあ芸術を愛好する人々一般の欲望かもしれないが)にほかならない気がする。
まあマゴーリスの「作品の同一性」っていう論文はその議論を、定義する(define)ことから同定する(idenfy)と読み替え、芸術作品という価値的な言葉をメガタイプというニュートラルな言葉に呼びかえることによって、芸術作品の同定の仕方を各芸術ジャンルでそれぞれ異なった方法で描くというのが要点だが、それでもこの問題がなんで問題なのかってこと自体はあまりピンとこなかった。
増田氏の論文および上の著作は、この問題を著作権という我々の社会の実際の問題と結びつけることで非常に有益な議論をしていると思われる。つまりは我々は日常生活において、「ある作品とその作品の翻訳の関係とは何か?」とか「ある曲の二つの演奏の関係は何か?」って悩むことはないんだが、ある文学作品の翻訳を販売したり、ある作曲家の曲のカヴァー・ヴァージョンをアルバムに収録したり(具体的にはPE'sの大地讃賞事件)とか、そういった事態ではこの「作品の同一性」といった問題は著作権の問題として非常にクリティカルなものになるってこと。
そしてここからは俺の思い込み半分で書くんでサラっと流してもらいたいが、美学っていう学問が意義深いのはある意味そういった我々の日常的実践に関わる部分であって、高度に形而上学的な部分ではないんじゃないかってこと。というか少なくとも「芸術」や「アート」のような日常的実践についての考察は、その実践によって常にその理論が揺らぐため、実践から遊離した理論は「美学」といった名前のせいでもあるけど、非常にイデオロギー的な性格を持つ危険性が常に付きまとう。
一方で、メタ倫理学のような学問では、その理論が基本的に我々の日常的実践から影響を受けることは少ない。つまりは倫理それ自体が日常的実践に脅かされることがあっても、「よいということは如何なることか?」という問い、そして「よい」という言葉の一貫性自体は常に守られる。というかその問いを常に発し続けること自体が日常において倫理的な実践必要なことなのである。
ともかく、倫理学における「よいとはなにか?」という問いよりも美学の「美しいとはなにか?」、「芸術作品とはなにか?」という問いが切迫したものではないのであるから、俺が感じたことを一言で言うと「美学者の倫理とは己の美学を倫理学から峻別すること」って感じになるんだと思う。