センス競争は悪か?

http://d.hatena.ne.jp/VanDykeParks2/20060226/1140888403
http://d.hatena.ne.jp/amiyoshida/20060304/1141461766
基本的にあらゆる文化の価値観は人を馬鹿にすることでなりたっていると自分は思ってる。
あのムハンマドの風刺画問題で一つ勉強になったのはフランスには人を馬鹿にする権利があるということだ。宗教的なことがらについてもそれがある特定の集団(例えばイスラム教徒やキリスト教徒)ではなく、ある宗教の象徴(つまり十字架とかコーラン)をならば馬鹿にすることがゆるされるらしい。
まあ日本がそこまでの表現の自由があるべきか否かはとりあえずとして、その話から俺は人の趣味を馬鹿にすることはそんなに問題はないと思っている。というか自らの趣味の価値を信じるならば、そこに他の趣味としての上下関係はあるのは当然だ。そりゃ馬鹿にされたら腹立つであろうし、時には怒って反論すればよい。でもどんな価値でも平等だとか言いながら、人の趣味と自分の趣味を相対化して事が済むと思っている人の話はたいていがツマンナイのである。いわゆるアレだ「音楽は何聴くの?」って尋ねると「なんでも聴きますよ」とかいう奴がツマランのと一緒だ。
ただこのセンス競争が、現状の社会関係の権力関係で歪められていることもあるのが話がややこしい。ポピュラー音楽学では歴史的にいって女性の音楽の趣味は脈絡のない集合として語られることが多かったことが明らかにされている(たぶん)。なんにしろキャバクラ的なオヤジがオネエチャンの趣味についてアレコレ諭すのがカッコワルイのは、センス競争自体がカッコワルイじゃなくて、そこにある権力構造にしがみついてしか自らの趣味の卓越性を主張できないからであろう。まああキャバクラでは金払ってるんでいいかと思うが、別に金もらってないのに人から自らのブログの音楽の趣味とかにアレコレいわれるのはまあ不快であろう。もちろんそこに権力構造がなくて、ただのセンス競争ならば別にたいした問題ではないのだが。
しかし近頃ではセンス競争自体を悪だと思ってる輩が多くて困る。ちょっと音楽の背景を説明したり、あたらしい音楽の凄さを言ったりすると「音楽は背景的な知識はいらない」とか「人の趣味を馬鹿にするな」とか言い出す奴がいる。そういう奴は自分をセンス競争から解脱した仏陀だと思ってるのかしらんが、「他人の目線を気にせずどんな音楽でも聴けるリベラルな自分」と思っている節がある。それこそ自らが「狭い趣味のあなたよりリベラルな趣味の自分」がより優秀だというセンス競争に加担していることを隠蔽するようなロジックにしか思えんのである。文化にスノッブがつき物であり、そこから逃れることはできないんである。
そもそも考えてみてほしい。スノッブな文化的な体験無しに、この豊穣な音楽文化はありえただろうか?最初から気持ちよくてメルツバウとかのノイズやあぶらだこのような変拍子とか吉田アミの金切り声を聴く奴がいただろうか?そんなことはないんである。我々人間の文化は他人からの差異の上に成り立っているからこそ、豊かな文化がありえるのだ。
まあだから馬鹿にされたらムカつくがそれによって自らの文化が広がることもあるし、腹が立ったら反論して、相手の文化的基盤をグラグラと揺るがしてやればいいんだ。俺はそうして今までやってきたし、たかが音楽のことで大激論の喧嘩になることもあった。でもそうやって話した相手とはその後も音楽の趣味を交換する友人となってたりするもんだ。
だから相手を馬鹿にしろ、そして馬鹿にされろ。そしたら自分の耳も相手の耳も変わっていく。
ってことでトニオ君!頭脳警察はコレを聞きなさい!
頭脳警察’73 10.20 日比谷野音
頭脳警察
B00005LJQ3

そして今度暇だったら、はっぴいえんど化する日本のロックの将来にとっていかに頭脳警察が重要化をとことん説教してやる!