読んだもの、これから読むもの

読んだ。
視線の物語・写真の哲学
西村 清和
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長らく部屋に積読状態にあったんだけど(そもそも俺が買ったのか、オヤジの書斎からパクってきたのか覚えがないが)、写真への興味の再燃から読んだ。
というかめちゃくちゃいい本じゃないですか、西村先生!写真専門ってわけじゃないのに、この本は写真を語る上での基本文献といってもいいじゃないか。美学会の発表のときの話と合わせると西村先生はナラトロジーにコダワリがあるみたいだな。
自分自身の興味にそって考えると、肖像写真の普及による自己意識の変化とウェブ上で日記のような文章を書くことでの自己意識の変化にパラレルなものがあるんじゃないかとか。それに関して以前にmixiのほうに書いたものをアップしておく。

人間の自己意識とメディアの発達の問題。

己の鏡像を見つめる外見の自己の意識と、誰にも読まれないことが保障される日記での内面の自己の意識は、相似関係にあることは確かだろう。ただ記録として残るという居心地の悪さ別として(記録ってのは総じて居心地の悪いものだ。)。

そうなると内面の自己の意識を可能な限り世界にばら撒くウェブ上に書かれた日記とは、19世紀に流行したカルト・ド・ヴィジット、自らのイメージを写真によって社会にばら撒く行為と相似関係にあると思われる。

カルト・ド・ヴィジットの標準化、規格化されたステレオタイプ的な肖像写真を考えると、ウェブ上の日記も極めて定型化されたものであふれていることも当然だろう。口の悪いボードレールなら「自らの低俗なエクリチュールを誇示する新参のナルキッソス」とでも言ったんじゃないだろうか。

それまでは特権的な階級しか認められなかった自らの身体イメージを、無名の大衆が持つ事を可能にした写真というメディアは、それと同時に大衆の自己の意識に見られているものとしての不安を生み出した。

ウェブ上の日記、文章に関する矜持と不安もこれと似たような構造にあるといえる。今では自らの外見的なイメージを流布させるのには臆病なくせに、自らの内面を吐露するのに一生懸命な人々があふれている。

以上、西村先生の本を読んで思ったこと

これから読む。
文学とは何か―現代批評理論への招待
テリー イーグルトン
4000028685

本当は大学入学して最初に読んでもいい本だけど、本郷で受けた大橋洋一先生の授業が懐かしくなったので、基礎教養の復習とともに読もうと思う。
しかしイーグルトンは難しい文章も簡単な文書も書けてすごいなと思う。そしてこの本は初学者のために非常に簡単に書かれているのだが、ある程度勉強した人にとっても、様々なレトリックの新たな発見があって面白い。内田樹先生が言っていたと思うが、本当にいい入門書ってのは楽しいもんだ。日本では未だに入門書に対する蔑視があって、いい入門書を常に訳本で読まなきゃいけないのがちと悲しい。