勉強というほどでもないけど

ブクマでみつけたこの論文を読んだ
つくられる個性:東京芸術大学と受験産業の美術教育
非常に未開拓なテーマなのでいまいち踏み込んだ議論ができてるとは思わなかったけど、東京芸大受験産業の関係についてとても良く調べられているので今後の展開が楽しみ。「創造性」ってことももっと踏み込んでほしいところだが、「自律的創造者」であるためには過去の予備校での教育を忘却しなければならないというところはとても面白い指摘だと思った。つまりロマン主義的な天才は先人から教えを学びつつ、それを忘却することで普遍的な存在になりうるのだ。昔の新旧論争の問題が現在の美術教育においても残っているのだ。

あと雑誌特集の
ユリイカ―詩と批評 (第37巻第8号)
4791701364

も読んだ。
ロキノンについてどれくらい書かれているかがやはり興味あったけど、思ったよりすくなかった。でも近藤正高さんの投稿雑誌文化については自分の卒論(http://d.hatena.ne.jp/shinimai/20050112#p1参照)の弱いところを補強する良い資料になりそうだ。関係ないけど岡崎京子の絵はやっぱかわいいなと思った。
あと南田勝也さんのロック雑誌の検証は自分もさんざん調べたことがあるところだったので「そうそう、そうだよねー」と思いながら読んだが、なぜ90年代以降に音楽雑誌が衰退したかという問題に「長年かけてミュージシャンの形象をアンプリファイしてきた音楽雑誌は、その使命をまっとうしたのである」と結論するのはあまり同意ができないなと思った。一つには形象をアンプリファイする機能はまっとうするという形で終了するものではなく、常に微弱な音をピックアップからアンプに流していなければ、増幅したミュージシャンの価値を保てないと思うからである。もちろん雑誌はその役割をネットなどの他のメディアに譲る形で使命をまっとうしたとも言えるだろうけど、だとすればなんで雑誌がその時代にアンプとしての機能を果たせたかもっと考えてみる必要があると思う、というか自分はそっちに興味があるってだけのことなのだが。
この問題は今回のユリイカでもっとやってほしかったことに繋がるのだが、文学や音楽、映画などなんの文化にしても、その価値を増幅するためのアンプとしてなぜ雑誌というメディアがあったのかとかをもっと突っ込んでほしいところだ。