文化と差別のアレコレ。

部落問題やら中間共同体とかのことを考えているのだが、前々から気になっていたというか、気に障っていたこのキーワード、「スクールカースト」について一言いいたい。あと今週末に行われるサブカルvsオタク大戦争への助走でもある、多分。
第一にこのキーワードの説明のここが気に障るというか、そもそも命名の仕方がアレだ。

未だ根強い影響力を持つインドの階級制度、「カースト制度」に酷似していることから名付けられた。

このキーワードを作った人はさぞかし「カースト制度」に詳しいのだろうか。「酷似している」ってどう酷似しているのだろうか。
俺に言わせるとヒンドゥーカースト制度とこの「スクールカースト」は似ても似つかないもんだと思う。
第一にカースト制はこの現世において生まれたあとに絶対にカーストを変えることはできない。「デビュー」なんかでヒエラルキーの変化あるような「スクールカースト」のような甘いもんじゃない。
そして一番重要な違いは次の点である。
カースト制の一番の問題は、現世の低いカーストから上位のカーストへ移行するためには現世でのカーストを受け入れる必要があるというところだ。現世の劣位のカーストは前世の悪行が原因で、来世に優位のカーストに立つためには現世のカーストを受け入れるほかが無いという構造的な差別なのだ。つまり、このカースト制での弱者は自らの価値基盤というもの、または文化というべきものを手にしておらず、強者の価値基盤でしか自らを存立させることができないのである。
一方、「スクールカースト」はどうであろうか。たしかに自らの学校でのクラス内でのヒエラルキーを上げようとするなら、「運動神経のいいところを見せる」、「変形学生服を着る」(今はどうかしらないっすけどw)、「トイレで隠れてタバコを吸う」(ワルそなヤツラはだいたい友達w)などの強者の価値基準に自らを合わせる必要があるかもしれない。
だが、そこでの価値基準とはあくまでも相対的なものだ。なぜなら、この「スクールカースト」で劣位に立たされてきたオタクなどはこの「カースト」での強者であるものたちをDQNといったラベリングをすることで蔑むことができるのである。たとえそれがルサンチマンから起因するものであってもだ。
ヒンドゥーカースト制の真に恐ろしいところは、その価値構造においては弱者はルサンチマンという感情すら持つことが許されないところだ。あるのはひたすら自らの現世における否定的自己認識であって、弱者としての威厳さえ持ちようがないのだ。
それに比べ、この「スクールカースト」と呼ばれるヒエラルキーにおける弱者は、強者をDQNとして蔑むこともできるし、自らを「童貞騎士」として誇ることもできる。それはここでの弱者はマイノリティーとしての文化を手にしているからだとも言える。
「確かに俺たちは人気者の集団ではない…だが、俺たちには・・がある。」(・・にはゲームやアニメや洋楽や深夜ラジオや雑誌などが入る)
こう思うからこそ、自らをそのヒエラルキーに従属させることなく、それを相対化していき、さまざまな文化が生まれるんじゃないだろうか。
そしてサブカルvsオタクという対立とは、このヒエラルキーに対抗する二つの勢力の内ゲバのようなもんであろう。どちらも容姿や肉体的な優位による自然的な価値基準に対抗すべき生まれた文化であることは同じである。まあ似たもの同士ゆえの同族嫌悪なのかもしれんが、本当の敵はそこにはないと煽り文句で終わっておこうじゃないか。