うんにょと文化の違い

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「美学」の喪失 by室井尚
この三つを並べて何をいいたいのか自分でも判然としないのだが、以前から文化に対する非常に素朴な感覚的判断を批判してきた理由をちょっと書きたいと思う。
中二病とか高二病とかの趣味の卓越化のメタ・ゲームはまあ最初は多分ネタというか冗談みたいのだけども、それを冗談として着地する地点は「まあ趣味による卓越化とかってくだらないよねー。結局聴いて良いと思ったもんがいいよねー。」というある意味、民主的な?相対論的立場なんだろうと思う。まあそういう意見も半分までもわかるし、そのような立場だってあってもいいだろうとも思う。
ところがある音楽の良し悪しの話をしている時に、その時代状況とか地理的な話、いわゆるムーブメントとかシーンを説明すると、とたんに怒りだして「そんなことはこの音楽の良さ(悪さ)とは関係ない!」なんて言い出す人がたまにいたりする。こっちは他人とコミュニケーションをとるためにid:kataru2000さんが引用している菊池氏が言うところの「外部的な視座・視点」を利用しているつもりなんだが、そのような「感覚的な人」には通用しないみたくて、「『歴史』『外部』の知識といった武器を使うな!」みたいなことを迫られたりすることがしばしば。多分そういう人たちにとって、「歴史」「外部」の知識という武器は音楽やら文化を語る際の抑圧として感じてるんだろうなってことも俺は理解できんだけど、俺に言わせればその「感覚的な」判断を下せとかいうほうがよっぽど抑圧に感じちゃうていう構造。というかこっちは自分の主観的な体験を外部の言葉を使うことによって他人にもわかるように言ってるつもりなんだが、「感覚的な人」はそれを許さなかったりするんだが、じゃあどうやって説明するんだというのだろうか。「これいいよね。」「いいよねー。」で分かり合えってことかい。まあ元から知ってるもの同士ならそれでも良いけど、知らないもん説明するときにそれで何かが伝わるのかいなって。
あともう一点、言いたいこと、こっちのほうが重要、たぶん。というかそのような趣味の民主化?とでも言うべきベターとした文化的な価値観(つまり感覚的に良いもんは良いんだよ、文脈とか歴史とか関係ねっていう価値観)のたどり着く先に本当に文化ってもんがあるんだろうか。というかそのような価値観は文化的と呼べるのだろうか。それは端的に動物が飯食って寝てセックスしたりするような意味での価値としか呼べないのではないか。
まあここでの話は俺の独特な文化観の上で主張しているから同意してくれなくても別にいい。で俺の文化観というのを話すことにすると、上の室井さんの話に繋がるわけだ。俺にとっての文化というのは、この殺伐とした自然界の秩序、つまりは弱肉強食の縦の世界に対抗、いやそれほど強いもんではないけど、もう一個の価値観を生み出すこと。自然の掟である弱肉強食の縦軸に、人間としてあるべきあり方という横軸を付加することが文化の力だと思っている。もちろんその横軸を強固な一つの軸ではなく、さまざまな力関係が働いた雑多な諸軸なんだが、それらを自然の縦軸に完全に還元させることはできない横軸だ。そのような横軸が働いてこそ、人間としての生活があるんじゃないかとここ一二年は思っている。
で、現代の諸事情(ってなんだって感じでもあるがw)を見ると、室井さんがいうようにあらゆる文化的とされるものがスーパーマーケットに並んでいる状況がある。俺に言わせると完全な資本主義という世の中は、ある意味で自然状態と同じと考えるてるので(あまりにも浅薄な考えですがw)、この状況は文化という力が衰えて限りなく弱肉強食の世界に近づいた世界のように思えてくるわけであります。多分、モテとか負け犬とか勝ち組とかいってるのもそんな状況を反映しているんじゃねーの(投げやり)。
そして前述の感覚的な、感性主義とでも言うべき文化観はその現状を追認する構造になってるような気がするので、俺としては認めがたい。単純に言うと、「感覚的に良いもんは良いんだよ」という話を突き詰めると金があって一番、音楽を聴けるやつが有利だって話でもある。ここ強調しすぎるとなんだかマルマルしてくるのでアレなんだが。
あーなんか文章グタグタなんだが、ようは言いたいことは文化ってやつはスーパーマーケットには売ってないよ、いや売ってるけど、売ってるから文化じゃねえんだ。値段にならないとこにあるんだってことを言いたい、ってことにする。
今日は非常にまとまりないが、メモだと思って、というかこのようないい加減な話もできるようにaberrations of youth ってカテゴリーを作ったのでいいのだ!