絶賛と罵倒の間

いい回文できたから、たまにはネット上の話題に拙い口を挟んでみる。
http://replica-love.jp/sayonana/archives/000493.html
からはじまる一連のネット上の「酷評」に関する議論。
http://d.hatena.ne.jp/ozric/20050514
http://chiruda.cocolog-nifty.com/atahualpa/2005/05/post_6a98.html
悪口に反応して、はてなに良く出没する菊地成孔Amazonのレヴューで悪口を書く人のところにもメール出すそうな。さすが、菊池だ!(笑)
ともあれ上のネットでの「酷評」の議論はいまいちそれぞれの観点がかみ合わない感じがするので思うところを書いてみる。
まず批評と売り上げの問題。菊池成孔は「売上低下に直結するからやめて欲しい」と言っているが、ポピュラー音楽の世界で基本的にある批評が売り上げに関与するのはほとんどないと思う。サイモン・フリスが「サウンドの力」なんかで書いてたが、ポピュラー音楽の批評というのその音楽のマーケティングなどの方向性に影響を及ぼしても、その売り上げに直接な影響を及ぼすことは稀で、良く書こうが悪く書こうが買う人は買うし、買わない人は買わないものだ。一般的に考えても、あるアーティストのアルバムなんかが「酷評」されてようが「絶賛」されてようが、買うときには買うし、買わないときには買わない。というかそもそもまったく目に触れない作品は鼻から買おうとも思わないから、「酷評」されてようがレビューで目に触れて分、買う可能性は高くなる気もする。商品検索によってたどり着いた先にあるレビューを読むAmazonの場合はこれとは少し違うかもしれないが。
さてそもそもこの議論の中で話題になっている「酷評」とはいかなるものか、ためしに菊池成孔Amazonで検索してみて少し見るが、そんなに悪く言われてる印象はない。サヨナラさんのとこの文章を見るかぎり、「駄作。聞く価値なし。○○のパクリ」みたいなよくAmazonとかで見かける素人がただ一刀両断するようなものだろう。俺は基本的にAmazonでレビューみて商品を購入したりしないで、読んだり聴いたりしたことがあるものがどう評価されてるのだろうと思ってみるくらいである。だからそのような「聴く価値無し」とか根拠が示されず否定するようなレビューは情報的な価値はないので無視するだけである。Amazonでもそのようなレビューの「このレビューは参考になりましたか?」は1票も入ってない事が普通であり、当然だと思う。だって参考にならないもん。知らない人の好き嫌いを聴かされても。
議論ではこういった「酷評」がアーティスト側に与える悪影響に対する倫理性が問題となっているが、そもそもそのような悪影響は「酷評」に限った話であろうか。そりゃ誰だって根拠の無い否定をされると多少は傷つくであろうが、だからって本気で悩むというよりも、「あっそ、あなたとは趣味が合いませんね、バイバイ」という感じだ。むしろ「あなたの○○は社会的に見てコレコレの理由で非常につまらない」などと正統な根拠を並べあげて否定された方が深刻に傷つくのではないだろうか。
問題は「酷評」に限った話ではない。たとえ絶賛されようと芸術のような世界はただ売れればいいというものではなく、誤った理解によって絶賛されることもあるだろう。作者にとってのある作品が、享受者に思いもよらぬ解釈によって持ち上げられることによって傷つく作者というものもいるであろう。じゃないとカート・コバーンなんかが自殺した理由とかは考えられないじゃないだろうか。
なんであれ作品は作者の元から生み出された瞬間、自立したものとして存在しはじめる物である。だから誉めようが貶そうが、それを解釈する批評のような行為は当然、作者への暴力的側面は必ず含んでいるだろう。もちろん作者も思いもよらぬ解釈が作者自身へ良い影響生み出す事もあるが。
でここでの議論の本質はそのような「酷評」がアーティストに及ぼす悪影響よりも、批評やレビューなどというものに対するリテラシーの問題にあると思う。確かに自分の単なる好き嫌いに発する無責任な発言はAmazonとかで目障りであるが、それが問題なのは匿名であるから、作者が傷つくからといった点にあるのではなく、端的に批評として無価値であったり、それを批評と思い込む輩がいたりという点にあるのではなかろうか。もちろん有名な批評家やアーティストである人が自らの好悪の判断を口にした場合、コンテキストであるその人の趣味や思想から、その発言が意味を持つ事はあるであろう。だがネット上の名無しさんがいくら自らの好悪を言おうとも「あっそう」で終わる。だから正しいリテラシーがある人なら無視すれば良いだけなのであろう。
そもそも昨日も書いたことではあるが、ある音楽の良さをネット上の文章で相手に納得させるのは相当に難しい。だから俺はそんなことを期待してネット上に文章を書くことはほとんどなく、本当にわかってもらいたいなら、まあ酒でも飲もうやって言って、カウンターで相手に向かって小一時間問い詰めたいと思う限りである。
なんにしろネット上の批評に関する言説は非常に混乱を極めている。ゲームにしろ音楽にしろ、一方で感性的に自らの好悪を得意げに語るものと、そのようなものを見て批評は死んだと諦観するものがいて、それぞれの対象は違うのだが一向に批評とはいかなるものかというのは見えてこない。このような状況に感性的なものに対する学であるところの美学はより一般的な立場から、批評とはなんぞやと発言すべきだと日頃思うしだいであるが、当の美学の向いている矛先が未だにオゲイジュツばかりではそのような汎用性がある議論ができないわけで、と愚痴臭くなったところで止めにする。
匿名の批評についてはここも参照
http://d.hatena.ne.jp/ykurihara/20050519#1116439208

追記
コメント欄まで目を通さなかったけどozricさんとこ荒れてますな。やはり最後の文章あたりはうかつな感じであるし、批評についてあれこれ言うことも批評になるということに気づいていなかった節などある。やはり問題は酷評とか匿名とか言う問題ではなく、批評というものに対する根幹に関わるリテラシー不足な気がする。こんなこと書いてると俺までドつぼはまりそうでいやだな。
トラックバックにしてもコメントにしてもそれぞれの立場からばらばらな視点で発言されてるからなんかいらいらきちゃう。なんか批評に関するコレ嫁って本がやっぱ在るべきだと思う。せめて、だれかまとめキボンヌって感じ。
それにしても菊地で人が集まりすぎるのはなんだ。半分くらい本人が見てんじゃないかと。
菊地だけがガチ!菊地だ!(笑)