中二病、高ニ病へのレクイエム1

久しぶりにネット内の話題について言及したいと思うが、それはなんというかずっと気になっていたのだが、ネット上での文化に関する言説についてである。まあいわゆる中二病とか高二病とかいうやつで、定義とかはよくわかんないんでそこらのはてなダイアリーのキーワードをたどってみればいいと思う。というかもうすでに言葉遊び的なネタになってる感があるから、統一した定義なんてものは希薄であるとは思うが。
しかしなにから話そうか・・・と、まずは俺自身と文化の関わりについてちょっと書いておこう。
まあ話はやっぱ中学からなんだが、中二くらいから洋楽ロックを聴きはじめていた。わかりやすく中二病ってことなのだが、本人的にはごく普通に(つまり他人と自分との差異を強調するためではなく)聴いていたのだ。たぶん深夜ラジオを聞くようになって(嗚呼なつかしやミリオンナイツ)、ビートルズとか興味もって、ゆっくりと洋楽を聴きはじめたのだ。なんで洋楽だったのかはうまく説明はつかない。ただ俺が中学の時には日本のロックはビジュアル系とかだったからではないだろうか。今、俺が中学生だったら多分洋楽ではなく、普通に邦楽ロックを聴いてるであろう。(つまり俺の思春期は洋楽信仰がかろうじて残っている時代であった)
それから高校に入ると、もっとマイナーなロックを聴くようになった。具体的にはアメリカのインディーロックだが(それも同時代のものというより一時代前の80年代後半から90年代初頭)小さな学校だったため、同じ趣味の友人は数人しかいないため、そのマイナー意識とエリート意識は先鋭化することになった(笑)。で、音楽以外の芸術を愛好し(まあといってもウォーホールの映画を見たりするくらいなんだが)たり、文学をよんだり(もちろん中学のときから本は読んでたが)して、まあつまりのその中二病的症状が出てきたわけだ。マスで流通するものしか受け取らない人々を馬鹿にし、自らが受容する文化によって、特権的意識を(勝手に)持つようになったわけだ。
で、次は大学に入るのだが、最初のうちは現代音楽聴いたり、ゴダール見たりしてその傾向は続いたわけだが、次第に趣味を広げすぎて結果、文化的に先鋭化が不可能になっていった。というかまあ、わざわざそんな難しいもん見たり読んだりしなくていいなってことである(笑)。
で、どちらかというと俺の関心はもっと引いた目で、「なぜ人はそのようなマイナーな文化を偏愛するようになるのか?」(これを我々の友人の中ではマイナーパワーと呼んでるw)といったことに学問的に興味を持ちはじめたのだ。まあそれでいろいろ本読んだり、あーだこーだ考えたりすると、芸術というか、まあ文化ってのは非常に差別的な構造にできてるなと、ごく普通な考えに至り、さらに文化的な差異によってあるものを判断するのは馬鹿らしくて「良いものは良い」のだという「無難な」考えにいたるわけである。
でここまでが、昔話。問題はこれから先である。
近頃、ネットやなんかで「中二病は駄目だ」(というかもっと2ch的な語法を使い揶揄するわけだが・・・)ということを言ってる人は、この「良いものは良い」という極めて素朴で「無難な」文化的なものに対する感性主義的立場なんだと思う。さらに言えばその中二病的な態度を嫌悪し、一回転したところでマスな文化を賞賛するのが高ニ病で、最近ではそれを毛嫌いするのが大二病とか・・・まあなんにしろ全体にいえるのは、文化を感性的な側面以外で評価する、つまり文脈的な差異などを強調して評価する態度を「病」と括ることで脱臼させているのだ。そしてそこにあるのは結局、素朴で「無難な」、「(漫画でもアニメでもハリウッドでも洋楽でもJ−POPもアニソンでもフランス映画でも文学でもライトノベルでも、その形式的な差異はともかく)内容が良いものが良い」という美学であろう。
「無難な」書いたのはつまりこれは、実は「無難な」ことではないと俺が考えてるわけで、こっから本題に入りたいと思うのだが、長いからとりあえずまた明日。