ロック雑誌研究

南田さんがコメント欄にて、『ロックミュージックの社会学 (青弓社ライブラリー)』のミッシング・リングであった部分を引用してくれたので折角なのでここにも載せときます。僕と同じようにロック雑誌研究をしてるような人がいたら参考になるでしょう。
141頁の「……みずからをアイデンティファイしていた」と「洋楽偏重の根強い傾向のなかで……」の間の部分

 その原因である英米のロック・ミュージシャンの神話化に関しては、ロック評論の分野の動向も関係している。一九七二年七月に創刊された渋谷陽一編集の『ロッキング・オン』誌は、「日本の洋楽ロック・ジャーナリズムを変える」 意気込みで、ミーハー向けとされていた『ミュージック・ライフ』誌への対抗を意識した誌面づくりをおこなっていた。ロック・アーティストをアイドル的に(つまり手の届きそうなあこがれの対象として)あつかうのではなく、その精神性や思想性まで含めて批評しようというものである。創刊当初は隔月刊で同人誌的な内容だったが、七七年一〇月号より月刊化を果たし、以降ロック批評のリーディング・マガジンとしての地歩を固めていく 。
 自負心に満ちた語り口と大仰ともとれる文体で、文学的なロマンティシズムの投影の対象として「ロックなるもの」をあつかった同誌は、(たとえばそれを愛読することによってロックに目覚めたという感想が聞かれるように)一時期カリスマ的な人気を誇り、「本物のロック/そうでないロック」の線引きに少なからぬ影響を与えた。渋谷は一九七九年に「デビッド・ボウイと三十分話すよりも、彼の全力投球したレコードに三十分向き合う方が、はるかにデビッド・ボウイの核に触れることができる」 と創刊以来の編集理念について語っている。外国アーティストのインタビュー記事は経済的に困難だった事情もあると思われるが、こうした信念が、批評の独立性を生み、また副次的な効果として――「三十分向き合った」すえに増幅した思いを投影した結果――アーティストの抽象化と神話化を促進したのである(ただし渋谷はその点に関しては自覚的であった。たとえばロック評論によって成り立つ空間を閉鎖的な「ロック村」と自ら呼ぶ態度にもそのことは表されている)。基本的に洋楽をあつかう誌面なので当然ではあるが、アーティストの称揚にしても産業ロックの批判にしても、「ロックの精神」の体現者はつねに英米側におかれていた。