苦学スパイラル

お金がないと本が買えなくて、本が買えないと卒論書けなくて、だから働くのだが、働いてると卒論書く暇はないという悪循環。それを断ち切る唯一の手段が図書館でありまして…

美学と現代美術の距離―アメリカにおけるその乖離と接近をめぐって

美学と現代美術の距離―アメリカにおけるその乖離と接近をめぐって

ずっと読みたかったので総合図書館で借りる。
アメリカの美学(会)における分析美学の台頭によって実践の場の現代美術と美学の乖離、また日本美学会アメリ美学会の乖離などなど。詳しくは
http://homepage3.nifty.com/MASUDA/rock/rock04-03.html
を読めばわかる。
しかしわからんのは分析美学の冷淡な記述が実際の芸術の世界との距離を離すと批判する人(シェスターマンとか)は、美学と芸術が同じ目標をもって協調関係を持つ必要があるとどうして思ってんのだろうか。まったく隔絶したとこで美学と実践としての芸術が行われているのがなにやら不健全な感じがするのは良くわかるが、無理に関係を持とうとしたり、べったりと
芸術の場と美学がくっついてんのも気持ち悪いってもんだ。鳥類学の教授に自らの鳥への愛を強く説かれるのはそれはそれで気持ち悪いってもんじゃないのか。まだ全部読んでないけど「適切な距離」ってのが必要だってのは事実である。
サウンドの力―若者・余暇・ロックの政治学

サウンドの力―若者・余暇・ロックの政治学

これもずーとここ二年間ほど読みたかったものだが、教養学部図書館にあってリクエストまでしてたのに「不在図書」になってしまった。古本でも見つからず、アマゾンではずっと在庫無しだったし(今はあるけどそれでも発送までかなりの時間がかかる)、誰だよパクったやつは!お前のせいで卒論の資料がずーとそろわなかったろうが!
まあ怒りはそこまで、都合よいことに文京区図書館にありました。それも音楽関係に強い小石川じゃなくて千石と水道端に。小石川にあればもっと早く気づいたのに。
さて念願の対面を果たしたフリスたん*1の本は思った以上に装丁がかっこよくて、古本で見つけたら買おうと思うくらい。序からしてなんか飛ばしてて「私のいうことはすべて、的確に資料で裏付けられ、主張はどれも証明された。」なんていってんの。すげーよウィトゲンシュタインみたいよ。
まあ冗談はともかく、第Ⅰ部まで読んだが結構翻訳が読みにくく確かに原典がほしいところ。それでも第3章の「ロックと大衆文化」のあたりのマトメは使えそうである。つまりリーヴィスやマルクス主義、そしてアドルノに至る大衆文化批判からロックを擁護する二つの立場「民俗音楽としてのロック」と「芸術としてのロック」の言説が60年代に登場したあたり。
おそらく日本でも60年代末、70年代初頭にロックを価値あるものとする言説はこんな感じであったのだろうと想像するし、渋谷陽一的な立場ではやはりそんな価値付けは許せんよなと思った。フリスもこのように言っている。

本章において私が強調してきたのは、民俗文化または芸術としてロックを積極的に評価する主張は、ミュージシャンやマスメディアにまきこまれているのにもかかわらず行いうることについての主張である、という点である。ここでは大部分のポップ生産物が文化的に無価値であると推論されている。ロック・ファンが彼らの支持するアーティストの特別な価値について確信を持てば持つほど、彼らは他のポップの消費者が得る愉しみを軽蔑するのである。しかし、ロックのポピュラー文化的な価値とは結局、そのメッセージが特定の民俗共同体ないしは芸術家仲間には限定されないことなのだ。

うーむさすがフリス、ロックなお言葉だ(笑)この主張はまさしく渋谷がROで繰り返してたことの明確な言語化のように捉えられる。

*1:有名な話だけどサイモンはフレッド・フリスの兄!イギリスポピュラー音楽界?の中の最強兄弟なのだ。というかアマゾンでも著者名がでないし、はまぞうでも翻訳が作者なってる。これって編集し直せるのかな。