ミュージアムの政治性

新学期始まって早速、渡辺先生の原典購読の授業で美学研究室の後輩2人とともに当てられて、5年生の立場から教育的(笑)指導をするはめに。
今回はジェームス・クリフォードのOn Collecting Art and Cultureっていう、博物館、蒐集といった問題を扱う論文である。本文の要約は後輩に任せて(教育的暴力!)自分ははて、何をネタにしようかなと思って、図書館やら生協の書籍部をまわる。
始めは本文に出てくるフェティシズムの話をマルクス資本論の有名なところでも参照して補足でもしようかなと考えたがやめて、最近になって流行している(と、この情報も渡辺先生の授業で聞いた話だが)いわゆる『驚異の部屋』(ブンターカンマー、クンストカンマー)のネタにした。
でたまたま生協で発見した

ミュージアムの思想

ミュージアムの思想

を読んでるがなかなか面白い。
ブンターカンマー、クンストカンマーってのはヨーロッパの王侯たちのコレクションの原型みたいなもので、近代になって様々な分類によって系統付けられて展示されるミュージアムとは違い、様々な宝物、珍品、異国の物、美術品、動植物の標本が渾然一体(実際には独特な仕方で系統付けられてるわけだが)と集められた部屋(カンマー)である。そのため、これまでの美術史などではそのような雑然とした蒐集は非合理性、体系性の欠如と捉えられて無視されてきたのだが、近年になってミュージアム研究の「芸術価値」中心主義の(それは当然西洋中心主義と重なるのだが)転換とともに注目されてきたのである。
で、この本はそのような西欧の新しいコレクション史研究の流れを踏まえつつ、より政治的な立場から批判を投げかけている。

 西欧のコレクション史研究者たちは、ポミアンの『コレクション――趣味と好奇心の歴史人類学』の強力な影響のもとで、西欧の十六、十七世紀のコレクション文化を「好奇心の文化」と規定し、それに「帝国」「支配」のタームを巧妙に結びつけようとしてきている。そうすることで彼らは自分たちが新しい「文化帝国主義」のイデオローグになっていることに気づいていないようである。
 彼らは、ヨーロッパ人の「好奇心の文化」の連続性を西欧世界の絶対的優位性から説明し、そしてそこからひとつの結論を見いだそうとしているように思われる。この連続性を承認することは、彼らが無意識のうちに「文化帝国主義」に陥ってることを意味する。なぜなら、「キャビネット」、つまりクンストカンマーとヴンターカンマーは極めて特殊西欧的な思想であるが、その個別的で特殊な制度と思想を「宝物室」という普遍的なものと接続することで一般化し、普遍化する思考から抜け出せていないことをはっきりと示しているからである。

いささか手厳しく、必要以上にラジカル(「文化帝国主義」って発想は個人的には疑念を感じるし)であると思われるものの、そのあとに続いて引用されるシェルトンやブレーデカンプの文章を読むと――シェルトンの「キャビネットはヨーロッパの世界観がいかに懐深いか、潜在的には侵犯的であるはずの世界や習俗をいかに易々と取りこみ馴致するものかを目に見える形にしたものであったか」や、ブレーデカンプのクンストカンマーをキリコやエルンストなどのモダニズム絵画に結びつける文章――確かにそう言いたくなる気持ちもわかる。
さらに東京大学総合研究博物館小石川分館で2002年12月7日から2003年3月2日に開催された「MICROCOSMOGRAPHIA マーク・ダイオンの驚異の部屋」という現代美術家によって作られた、現代美術によって接合された「驚異の部屋」というものを考えてみると、「そんな無邪気でいいのかい?」と言ってみたい気もする。
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/CR/jyuken/jisshu_dion.html