曖昧な存在の学生

を図書館で借りて読んでる。『感情教育』ってなんだか、心のノートっぽい響きでいやな感じですが、関係ない。
フランス文学なんて読むの殆ど初めてだけど、これは趣味じゃなくてブルデューの『芸術の規則』のために読んでるのである。
義務的に読んでるとは言えどもなかなか面白くなってきた。
フランス革命下でのエリート学生の恋と成功を巡る話なのだが、基本的に主人公のフレデリックを東大文一生と考えて読んだりすると面白い。日本には社交界のようなものはないが、文一生が芸術とか学問とかにかぶれつつ、人妻に恋をして成功を逃すといったような感じで考えるとそれなりに身近だったりするね。

あとブルデュー『芸術の規則1』のプロローグまで読了。
社会学的に文学を読むことの意義から、フローベールが企図したものとして社会的に構築された『感情教育』の分析の前提などが書かれてた。文体的にちょっとわからんとこもあった。
基本的には『感情教育』という話は、フレデリックという青年が自らのハビトゥスよって、芸術界(アルトー)にも実業界(ダンズブール)にも馴染めず失敗するみたいなことを言ってた気がするけど、多分それだけじゃない。なんかフローベール自信とフレデリックの関係に付いても指摘されていたともあるんだが、あんま良く分からんかった。取りあえず読みすすめよ。
あと気になったとこ引用しとく

脱利害的な姿勢の礼賛は、「貧しさ」を「拒否された豊かさ」に、すなわち精神的豊かさに転換する、驚くべきイデオロギー的転倒をもたらす原理である。もっとも貧しい知的企図であっても、とにかく物質的豊かさよりは優遇されるであろうから・・・
想像上の豊かさの、こうした想像上の放棄を正当化するとみなされている自立性について言えば、それは「ブルジョワ」がこの行為に与えている条件付きの自由、他から切り離された世界でのみ通用する自由にすぎないのではないか?「ブルジョワ」への反抗も、それがまさしく反抗対象があるからこそ存在するのだという原理を知らずにいる限り、みずからが異議を唱えている当の対象によって支配され続けてしまうのではないか?

うーむ、良く分かるこの気持ち。