昨日の続き

佐藤卓巳『キングの時代―国民大衆雑誌の公共性―』のⅡ、Ⅲ部読了。
Ⅱの「『キング』の二つの身体」は野間清治がいかに大日本雄弁会講談社を立ち上げ、さまざまな雑誌を学生、夫人、少年少女になどに分断された大衆に向け発行し、最終的に『キング』へと統合するさまが描かれる。実証的な話などで特に書かないが、講談社の内部組織として野間教の信徒とも言える講談社少年部の話は面白かった。出版と宗教のつながりは現代でも創価学会などを考えるときに参考になる。創価学会は宗教が出版社もやってるって感じなイメージだったけど、出版社が宗教化したと考えたら違った見方ができる気がした。
Ⅲ「ラジオ的雑誌の同調機能」は大日本雄弁会講談社という名前からもわかるとおり、「語りの産業化」によって成長した『キング』とラジオという当時の新しいメディアの類似性を見出し、ラジオと大衆的公共圏、ファシズムに関する専攻研究を用いて分析する。
ラジオやレコード、特に日本では浪花節などの語り物文化と国民主義の高揚などは、音楽と政治を扱った問題で興味を引く。なかでも本文でも取り上げられる

は以前から読もうと思っていた本。安そうだし買ってもよいな。

これに関連するが、今日の今学期最後の渡辺先生の授業はうたごえ運動などの声と政治のお話であった。荒木栄などの曲や新宿のうたごえ喫茶、灯のライブ音源など流しながら、戦前各地の民謡が正調として普遍的な日本音楽の樹立を目指し、邦楽改良などの大きな流れを受け、大東亜共栄圏などの近代化した日本のイデオロギーに加担することになったことと、戦後の左翼運動から発展したうたごえ運動が各地の民謡を「発見」して、大衆の音楽として再構成していったことの共通性を指摘していた。
右から左と政治的立場は違えど、そこにある日本音楽という理想というものは、今でいう邦楽でも洋楽でも無かった。
そして、レポート課題もそれに関連して永井郁子の日本語訳詞問題を論じよ、というもので、あの「日本語ロック論争」なんかとつなげて書けばオモシロそうだなと。
そいや今日の朝のNHK教育の人形劇の主題歌があがた森魚の曲であったけど、日本語論争でのフォーク/ロックの対立は、言葉の違いというよりも、前者が語り物文化の伝統に根ざしていて、後者が器楽音楽主義であるという対立のように思われる。特にあがた森魚なんては、一般的なフォークとはいえない音楽性ではあるけど『乙女の浪漫』とかは、自分の音楽を戦前からの語り物伝統の路線に置くことを意識してるようにも思われる。