ラーメンとシリアスミュージック

今日は神無備で初めて限定の坦々麺を食べた。最後の一食でラッキーであったがそれほどでもない。やはり杏仁豆腐の凄さには劣る。
NW氏が神無備の塩ラーメンのこだわりっぷりとその微妙な味わいを現代音楽と例えていたが、オレにとってはそこまでわかりにくくはなく、せいぜいライヒのミニマルくらいにはポップである。
それから、昨日は上野にできた光麺にいこうとしたが、行列イッパイであったので仕方なく、一蘭にいったのだが、向井秀徳が日記に書いてたとおり、あの一連の「純粋に味を楽しんでもらう」システムは即刻やめて欲しい。あの隔絶した空間のなかで、暖簾の下から出されるラーメンを食うってのはヒジョーに情けなく滑稽である。仕切りついてても逆に隣が気になったり、いろんなとこでチャイムのような音や、あの替え玉の情けない電子音チャルメラがなったり、ヒジョーに不気味だ。
なにがラーメンをこんな食い方にしたのか?いったい何が悪いのか?と考えた所、芸術が悪いという結論に至らされた。
渡辺裕の『聴衆の誕生』ではないが、芸術の自律的イデオロギーがラーメンにまで影響及ぼして、ラーメンの「純粋鑑賞」が生まれた。仕切りの中で他人と顔をあわせることもなくラーメンをすする姿は、まさにクラシックを他の何ものからも邪魔されずに聴取する姿のようだ。とはいってもコンサートホールでとなりの人の息遣いなどが気になるように、一蘭も仕切り越しにかなり気になる。いっそ個室にするか、LPの発明によってより音楽が「純粋」に聴取できるようになったとかいわれるみたいに、持ち帰りにしてしまえ。
とか、一人で寂しく食べながら思った。「軽やかな聴取」だけじゃなく、我々は「軽やかな摂取」を求めてると。