ひさしぶりに図書館

とりあえず長らく借りていたCDを返し、大学にない本を検索。ラッキーなことに発見。文京区最高!

以前から気になってた一冊。予想を越えて使える内容があった。
なかでも「音楽専門誌の傾向と対策」での広瀬陽一との対談は、ほとんど傾向と対策にはなっていないが、自分自身の問題設定にそれなりの正当性を与えることになって救われた気分。
広瀬が言うには、今の音楽誌は「妄想系」と「チラシ系」に二極分化しており、まっとうな「批評」が存在していない。そして、その「妄想系」でさえも部数の上では、「チラシ系」に押されており、その「チラシ系」もネットなどの普及によって存在意義が希薄になっているという。
この現状認識には、全くもって同意します。自分も音楽聴くようになったころ雑誌といえば「妄想系」ばかりで、嫌気が射し、結局タワーのバウンスしか読まなくなったという過去が。しかし、わからないのがこの対談で広瀬が言うところのまっとうな「批評」ってなんなんだろう。音楽聴き始め、雑誌を立ち読むようになった時、既に私の周りには「妄想系」か、ただの情報しかなかったように思われる。確かに、大鷹俊一さんとかのレヴューにはお世話になったが、それはただ自分と似たようなアンテナを持つだけのような気がする。おそらく私が音楽を聴く以前には、まっとうな「批評」と呼ばれる、思われる、何かがあったのかもしれない。
まあそんな感傷はともかく、その「妄想系」の走りとして槍玉に挙げられるのが、やはりROであって、そしてその中心が私が調べてきた90年の編集者増井修とされるのである。
広瀬はその「妄想」、「熱病」の原因として増井修ストーン・ローゼス大絶賛と、岩見吉郎のマニックス騒動をあげている。小野島も広瀬も両者の熱意は一定認めているが、結局、音楽の内実と文章が見合ったものではなく、単なるアーティストのキャラクターを偏重評価しただけとしている。
対談では触れられてないが、このロック批評における「熱病」の問題は、単にライターの怠慢や、音楽誌とレコード会社の癒着というところに収まるものではないと思える。90年代のROを読むことによって、私が考えてきた問題も偶然にもこの2バンドと関わりがあったことも含め、やはり90年代に「ロックをする」ということの自律性の崩れによって起こった事のように思える。広瀬の語り口には、かつてあった「ロックと評論の蜜月」が失われたことが感じられるのだが、そのような「蜜月」とは何であったのかは、90年代に思春期を過ごした者のはわからないのである。
今はとりあえずさらに昔のROやMMを調べてる暇がないのだが、いずれこの辺のことも調べてみたいと思う次第。