味覚=趣味、身体化した階級

ブルデューディスタンクシオン』の第二部三章の「諸空間の相同性」がもっそいおもしろい。ここでは主に食べ物の好みに現れる傾向を分析しているのだが、社会学的な興味がなくてもおもしろい話がいろいろ出てくる。あまりに話を単純化して誤った認識を与える危険性があるかもしれんないが、なんつーかトリビアがいっぱい。
例えば、

教授層は、経済資本よりも文化資本が豊かであり、それゆえあらゆる領域において消費を禁欲的にする傾向があるため、最小の経済コストで異国趣味(イタリヤ料理、中華料理など)や庶民性(田舎料理)へと向かう独自性を追求しようとする点で、金持ち(成金)およびその豪勢な食物に対立する。

(あくまでもフランスでのばあいですが…)どうりで渡辺先生と飲むときはミュンに行くことが多いのか(笑)
他にも料理法についての記述で

たとえば、多くの時間と関心を注がなくては作れない入念に調理された料理(ポトフ、ブランケット、ドーフなど)に対する好みは、女性の役割という伝統的概念と密接な関係にあるといった具合に。したがってこの点では、対立は庶民階級と、支配階級内の被支配層*1とのあいだでとりわけはっきり浮かびあがってくる。というのも後者においては女性が、その労働が大きな商業価値を持っているために(このことからたぶん、彼女たちが自分の価値を他の女性たちよりも高く評価しているのはなぜかということもある程度説明がつく)、自分の自由時間を優先的に子供の世話と文化資本の伝達に当てようとし、男女間の伝統的分業というものを見直そうという傾向があるからだ。調理における時間と労働力の節約の探求はできるだけ軽い材料、できるだけカロリー含有量の少ないものの探求に結びつき、その結果グリルした肉や生野菜、また冷凍食品、砂糖入りヨーグルトや乳製品など、およそ大衆料理の対極にあるような食品を選ぶ傾向が強くなる。

オヤジが肉じゃがを好む理由もわかったような気が。ただ日本の場合は伝統的な規範が強固なため「庶民階級と支配階級内の被支配層」の趣味の対立は少ないのではと思う。つまり、共働きの妻にも手のかかった料理をつくることが期待され、現実的な問題から労働力のかからない料理をつくるときがあってもそれはブルデューの言葉でいう「必要趣味」であって、卓越化を行うような差異ではなかったりする。
なんにしろ、極めて生理的で本質的な問題と思われる「味覚=趣味」についてのこのような分析は、自然化された「味覚=趣味」のイデオロギー性を暴露されてなんだかいつも言ってる「旨い」「まずい」とかってなんだろねって気持ちになる。

趣味とは自然=本性(ナチュール)と化した文化、すなわち身体化された文化であり、身体となった階級であって、階級的身体を形成するのに加担する。換言すればそれはあらゆる身体化形式を支配する身体化された分類原理であって、身体が生理学的・心理学的に摂取し、消化し、同化するすべてのものを選択し変化させるのである。したがって身体とは階級の趣味をもっとも確実に客体化するものであるということになる。

プラトン以来、その生理的性格ゆえにずっと貶められて、カントによって最終的に美からは追放された味覚は、ブルデューによって再び芸術に関する判断と同列に語られるわけだが、今度はその生理的な性格が剥奪され、芸術やその他あらゆる文化を見分ける能力とともにイデオロギー批判される。とことん味覚ってのはかわいそうな感覚だなーと。

あと毎回楽しく読ませてるいただいてるid:sujakuさん『学校給食を軸とした、ニッポン食文化変遷史』だが、ボードレールのブリア=サヴァランに対する非難などについてはブルデューのこの『ディスタンクシオン』と第二帝政期における芸術場の自律を扱った『芸術の規則』からおもしろいことを言えるのではないかと思います。自分も最近、美学的な観点から(なんだかとっても偉そうな表現ですが…すみません)興味もってるんでこれからも楽しく読ませて頂きます。

*1:引用者註 ここではブルジョワのように経済資本が多いわけではないが、文化資本が多い知識人を指す