二日続けてビデオ鑑賞

AVじゃないですぞ。
恥ずかしながら私、『パルプ・フィクション』も見てなかったので見ました。思ってたよりずっと笑える映画であった。ってかなんでこれが、コメディのコーナーに置かれてないのかが不思議であります。「足揉んで突き落とされる」とか「奇跡で足洗う」とか今考えてもニヤニヤしてしまうネタ満載なのだが。タランティーノ良さは、キャスティングの妙、なんてたって無理やり踊らされるトラボルタとか、結局ダイハードしちゃうブルース・ウィルスとか最高におもろい。あとはやっぱしプロットのうまさであろうか、大きな物語は何にも無いし、テーマも無い。そこにあるプロットの巧妙さで楽しませてくれるタランティーノ脚本はほんと凄い。だいたいトラボルタが途中で死んでるのに、さわやかに終わっちゃうし。新作『KILL BILL』も楽しみとこだからとりあえず制覇しとこう。
で今日見たのはジョン・ウォーターズ『アイ・ラブ・ペッカー』であります。『ピンク・フラミンゴ』『セシルBシネマウォーズ』は見たことあったが、この作品においてもウォーターズの意図は一貫していて、またしても俺の中での彼の株はあがりました。ウォーターズにしてはやや大人しいかな、と思わせるこの作品だが、ここでも表れるテーマは「文化の高級/低級」の二項対立のクイア的戦術における脱構築であります。
『セシル…』では高級文化としての前衛映画を撮るセシルBが、低級文化としてのハリウッドに対し、マイノリティー文化のポルノ、ゲイ/レズビアン文化と共闘する様子を、ハリウッド的な娯楽映画として描くという、巧妙なネジレがあった。
でも本作ではもっとわかりやすく、高級文化としてのNY=アートワールドと低級文化としてのボルティモア=ゲイクラブ、ストリップ、リサイクルショップ、コインランドーリー等を描き、最後にはその構図を逆転しつつ、脱構築するのである。*1
ここで描かれる二項対立はまた「地方」対「都市」の問題であり、ウォーターズは地方にとって芸術がいかに馬鹿らしいかを暴いた後に、地方文化としての芸術のあり方を提示するという巧妙な戦術を用いるのである。*2
ウォーターズのこの一貫性はやはり日本の映画には無いものであるように思われ、結局彼の映画さえ、日本では都会の文化として消費されるのは悲しく思われる。日本にも和製ウォーターズのような人が生まれ、都市の表象としての地方ではない、地方の文化が作られればいいと思うのだが。その場合ボルティモアはどこになるのであろうか?音楽の世界ではやはり、木更津の気志團あたりが有力か?
しかし、ちょっとレヴュー見たけどみんなJ・ウォーターズを解って無さすぎね、っと大言壮語してみる。彼は決してただの変態趣味野郎だったり、アングラ映画大魔王だったりしない。彼の意図する所は実験的なアヴァンギャルド映画と家族にも安心のハリウッド超大作映画の二項対立を無効化し、文化の高級/低級の相対化を図っているのに。ほんとにアングラ映画撮りたきゃセシルBのようなことをすれば良いのに、彼はそんなセシルBを極めて解りやすい形でさらに映像化してることに気がいかない人が多いようだ。ただ悪趣味を賞賛するのとは全くちがうのですが・・・まあ変態な人はそこで楽しめば十分なんでしょうが。

*1:NYでのペッカーの個展ではボルティモアの人々が写し出され、ボルティモアでの個展ではNYの人々が写し出される。

*2:まあ芸術の本質を理解するクリスティーナ・リッチのシーンは無理やりな感じは否めないが