いい加減夏休みから抜け出さないと。

夏休み気分でリア充しすぎたw
海に行ったあとは、芸大の金毘羅さんの展示とかを見に行ったから、谷中の園朝まつりせ寄席を見た。幽霊画は見たことあったけど、落語は初めて見た。なかなか奥がふかそうだったけど、素人には分かりづらい芸能のような気がした。いや、面白いのは面白いんだけど。
あとひょんなきっかけでコミケに初めていったよ。詳しくはまた書く。
あと恋人といろんなとこ散歩して、家で戻り鰹を食ったりした。
今の家の周辺はいまいち居心地の良いカフェとかないのが難点だが、少し足を伸ばすと下町商店街ゾーンが広大に広がってる。商店街は大好きである。ゆるキャラも豊富だし。

Stephen Davies‘Music’in The Oxford Handbook Of Aesthetics

オックスフォードから出ている教科書的なハンドブック・シリーズってのがありまして(実際にどう使っているのかは知らないが)、これがまたハンドブックというには厚すぎる本なのですが、とりあえず参考になると思い「音楽」の項を読んでみた。この本の編者はジェロルド・レヴィンソン。網羅的な本なので現代の英米美学を勉強する人はこれの項目にあたってみるのとよい。正直、こういうのこそ翻訳が欲しいねん。
The Oxford Handbook Of Aesthetics (Oxford Handbooks Series)
Jerrold Levinson
0199279454

音楽の項目の著者はステファン・デイヴィス(読み方は例によってわからん)。ニュージランドの哲学者で、このハンドブックでは「芸術の存在論」の項目も執筆しているようだ。
全体は細かく項目ごとに分かれているが、実際読んでたところ、節によって内容が区別されているというよりも、わりと一本道で音楽の哲学に関するイシューが述べられている。ある意味、初心者にはやさしくない。結構、勉強した人が自分が興味を持つ項目をのぞいて参考にする程度のものであるように思われる。今回は目下、研究中の情動(感情)と音楽の関係のあたりを中心に見ていく。

1音楽の哲学(The Philosophy of Music)

音楽の哲学ってのは日本ではあんまりなじみのない言葉であるが、音楽学や音楽美学といった言葉に染み付いているイメージを避けてか、英米圏ではこういう呼び方が最近では珍しくない。オレもそう名乗ろうかな(笑)
基本的に哲学における音楽の扱いは少なかった。だが、Daviesは過去30年間の美学で最も発展した分野であると言っている。頼もしい。この発展の功績はピーター・キヴィによって書かれた一連の本による刺激によるものであると。やはりキヴィはこの分野では第一人者であるみたい。これまではクラシックしかほとんど扱うことがなかったが、現在はパフォーマンス、即興、ポピュラー音楽、テクノロジー、メディアなど広範なテーマを扱うことになった。

2音楽の普遍性と独自性(Music's Universality and Particularitiy)

世界のすべての文化に西洋的な芸術というものがあるか否かは議論されるが、音楽は基本的にすべての文化にあると考えられる。そして似たような特徴を持つ。だがそれでも音楽は普遍的な言語ではなく、初心者にとっては異質なものも多い。
よって、音楽の多様性は異なった種類の鑑賞を要求すると、考えるべき理由はある。ロックとクラシックとジャズでは価値の与えられるポイントは違う。しかしながら、Daviesはそれぞれのジャンルが排他的な美学を要求することは明らかではないと考えている。

3音楽とは何か?(What is Music?)

要するに定義の問題。向こうの辞書的には「組織化された音」というのが一般的であるらしい。ではケージの「4分33秒」は?それは演奏者によって一定の時間に枠付けられた音、それゆえ組織化された音と考えることもできる。また、それは音楽そのものではなく、音楽についての演劇的な作品と考えることもできる。
では海の波の音はどうだろうか?それは自然法則に従った音の組織に関わるものだ。その場合、「組織化された音」という定義に「人間によって」と付け加えることで、その反例(同時に鯨や鳥の鳴き声も排除してしまうことになるが)を除外できる。その反面、その定義はやっかいなことに人間の言語的発話についても当てはまることになる。よって音楽の定義は、言語的発話と音楽を区別するために、組織化の方法や原則、その活動が行われための目的を明らかにする必要がある。
そのような組織化の方法や原則として、一般的に様々なパラメータ(音程、音量、アタックなど)を持ったnote*1のシークエンスとして考えられる。
すべての音楽は、ノートのシークエンスに還元できるのか?この問題は、それらのノートのシークエンスの変化にも関わらず、同一性を保持する高次の要素を人が判断するかどうかに依存する。つまり、しばしばノートのシークエンスが異なるにも関わらず、同じ音楽として判断される音楽があるということだ。というか、音楽の多くの作品は、完全にノートのシークエンスにおいて特定されない。いくつかの音楽では、音符のシークエンスのレベルよりも高次な要素を持つ方が普通である。
しかしながら、それはメロディーや楽章のような、より高次の要素に言及することで、音楽を定義できるだろうことを意味しない。というのは、そのような高次の要素を欠いている音楽もあるから。
ここでのDaviesの議論はかなり初歩的なことしか扱ってないと思われる。実際のところ、この問題は音楽作品の存在論の話につながるわけであるが、私自身としては「音楽の定義」と「音楽の存在論」は、まったく別の問題だと考えている。前者は主に民族音楽学者が、後者は哲学者が主に興味を傾けてきたことではあるが、この両者の区別の理解が一般的な音楽の理解に非常に重要であると思ってる。

4形式主義者と文脈主義者(Formarlism and Contextualism)

ここでDaviesは音楽作品の同定に関する二つの立場を述べる。形式主義者は、音楽の一つの作品はそのパターン単独で他のものから区別できると考える。それに対して文脈主義者は、音楽作品の同一性は、その音構造が創造されるコンテクストの側面に依存すると考える。
形式主義者として名前が挙がっているのはKivy(1993)、文脈主義者としてはLevinson(1990);Walton(1990);Sharpe(2000);Davies(2001)。これらの議論のポイントの詳細は割愛するが、どちらの立場にせよ、論点は作品の同定の要素としてのテクスト、コンテクストをどのレベルまで含めるかということだ。例えば、楽器編成は音楽作品にとってテクストなのか、コンテクストなのか、といった話。レヴィンソンは作者をコンテクストとして含めて、作品の同一性はその作曲家の同一性に依存すると提起する。また1800年ころ以降(つまり楽器の標準化が行われた後)からは、楽器編成もそのコンテクストとして、作品の同定の要素となるという。
コンテクストをより重視していくと、作品の概念それ自体が歴史的に変化しやすいものだという可能性が示唆される。そしてGoehr(1992)はそのアイデアから1800年ごろ以前にはいかなる音楽作品も存在しなかったと提起する。つまり、「作品」という概念それ自体が歴史的なものであるのだから、その概念が成立した19世紀以降、作品は成立したことになる。
歴史的な正しさはともかく、このゲーアの説はあきらかに行き過ぎに思える。Davies(2001)は代替案として、西洋音楽の数世紀にわたり、作品は構成要素において「より分厚く」なったと提案する。ゲーアの説では19世紀の作品の誕生を歴史的切断面としてしまうが、Daviesは作品を、繰り返しの演奏を誘い、ある演奏から他の演奏へと再同定がされうる存在物として考えることで、その歴史を連続的な過程として理解する。
ここの議論も実際には音楽作品の存在論に関わることで、音楽の定義とは別個に議論ができる。つまり、ゲーアが明らかにしたとおり音楽作品が歴史的でローカルな概念であるならば、音楽文化によって異なった作品概念があってもよいし、また無くてもよいからである。Daviesの説は、作品をローカルな概念としてではなく、同定可能な存在者として考えることで、西洋の作品概念を相対化していると考えることもできるだろう。

5即興(Improvisation)

以上からも分かるとおり、音楽は音楽作品が存在しなくても作られるものである。その場合、なぜ即興演奏は、演奏が一回きりの音楽作品とみなされないのか?

6音楽作品の存在論(Ontologies of Musical Works)

ここでやっと存在論に入るのだが、今まではこの節までの助走なんじゃねーのって気がする。
ここでDaviesは三つの種類の作品形体を提案する。
それはa「ライブ・パフォーマンスのための」作品、b「コピーがそれから複製され、流布されるマスターとしての」作品、c「ライブというよりむしろ、スタジオ・パフォーマンスための」作品である。
aはクラシックの作品や口承伝承による民族音楽などが含まれる。どのような形であれ、実際の演奏家パフォーマー)への指図があり、それが事例化(instancing)されて具現する。そして、その作品は、構成される性質において、その演奏された事例よりも「より薄い」。なぜなら、作品は事例化される演奏のいろいろな点を未決定(underdetermines)であるからだ。そして、実際にその作品決定的(work-determinative)な特徴は様々である。
bについてDaviesは具体例を挙げておらず、cとの区別の点で難しいが、おそらくテクノとかコンロン・ナンカロウの自動ピアノの作品、あとはミュージック・コンクレートを考えれば良いと思う。そのような作品においては、演奏(performance)や解釈(interpretation)のものではなく、プレイバックのためにある。そのため、aと違ってbはエンコードの忠実性が高ければ、その作品と事例(つまり再生)は同じ性質で充満している。ただし、デコードの部分(つまりオーディオ装置)によって、それぞれの事例は異なりうる。
cはaとbの間にあるものと考えればよいと思われる。Gracyk(1996)は、広義のカテゴリーとしてのロック・ミュージックは演奏のためのものではなく、ディスク上にあるものであると主張したが、Daviesはロックの作品をcによって理解する。それは通常のライブ・パフォーマンスでは実現できないサウンド・スケープをスタジオでの技術によって作り出す。そしてその正統性はCDやビデオの上にあるものによって査定されるため、生演奏のためのもの?ではない。また逆に「カヴァー」ヴァージョンは、ある作品の同じ事例としてカウントされるために、bとは違う。つまり、これらは演奏による具現化を誘う点ではaに近いが、レレバントな演奏はスタジオで行われるものとして意図されている。
これらのDaviesの三つの種類の作品形体は連続的なものである。普通、哲学者が行う作品の存在論はもっと抽象的なものだが、Daviesの視点はメディアやテクノロジーに向けられたより具体性のあるものだ。

7生演奏と録音(Live Performances And Recordings)

録音された音楽のすべてが存在論的にbやcではない。というか、多くのaも録音される。aの場合、録音はその作品それ自体をエンコードしないが、その演奏や事例をエンコードする
6で挙げた存在論的な差異とは独立して、生演奏と録音は経験でのレベルにおいても差異がある。つまり、生演奏と性質の面でまったく等しい録音があったとしても、それを生演奏で聴くのと、録音で聴くのでは経験に差異がある。そしてその美的な評価のレベルにおいても差異がある。詳細は省くが、要するにリスナーのメディアの知識は、その経験に影響するはずだという主張である。音楽の美的判断について考えるためにも重要な視点である。Brown(2000);Godlovith(1998);Tohm(1993)などを参照

8音楽の表記(Musical Notations)

音楽の表記、つまり楽譜について。表記は演奏の写本として機能するが、作品決定的なものの多くを指定しないので、演奏実践を前提としている。さらに未決定な部分を含むので演奏解釈の余地がある。そして、それらの演奏実践や演奏解釈は時代によって変化するため、表記から作品を具現化するためには時代考証が必要である(もちろん?の場合)。

9何が所与の作品の演奏を作るのか?(What Makes a Performance of a Given Work?)

これもaに関する事柄。ある作品がその作品の演奏であるためには、どのような条件が必要かというお話。次の正統性のお話へのつなぎ。

10作品の演奏における正統性(Authenticity in Performances of Works)

これも基本的にaに関する事柄。
Daviesはまず正統性を「正統なXは真正な、もしくは適切なXである」と規定して、それを分類の問題として考える。そして、それが評価的なのは、当の分類が評価的なときに限る。つまり、正統性であることが、必然的に評価的に優れていることにはならない。そして、正統性はそのカテゴリーによって多様である。
演奏において、それが忠実に指定された作品決定的な指導を遂行する限りにおいて、正統的である。aにおいて、作品はその事例よりも薄いために、正統性において同レベルであっても、異なった演奏がありうる。
正統な演奏において要求されるものについては他説ある。Davies(2001)は、その作品の作者の指定する表記とともに、その表記の慣習や演奏実践、楽器編成などの作曲家がいた時代と文化について知る必要がる。Kivy(1995)は、現在の正統的な演奏ために、我々は、その作曲家が現在、欲するものを知る必要があると主張する。もちろん、これは実現するのが困難である。
正統性が高い演奏が可能だとしても、それは望ましいものなのか?これも他説ある。一方では、我々は作曲家の同時代人たちが聴いたように作品を聴くことができないために、望ましいものにはならないという。しかしDaviesは、我々は曲にあわせて自らの立場を調整できると主張する。またLevinson(1996)は音楽的にリテラシーがあるリスナーは、過去の音楽にアプローチできると主張する。

コメント

長くなったので以上は次回。ここまでが基本的に音楽の定義、作品、存在論、正統性に関する話。これ以降に、情動に関する議論がなされる。
Daviesの議論はテクノロジー、メディアなどを考慮する視点がやはり新しいようだ。存在論においては、その視点からの分類になっており、音楽の哲学の射程が旧来のクラシック一辺倒ではないことがわかるだろう。その反面、正統性に関する議論は、やはりaのような作品形体を中心に考えているように思われる。真正さという意味で正統性はもちろん、作品と演奏の間の存在論的な関係において議論されるべきだが、ポピュラー音楽においての正統性はそのような作品の存在論的な正統性とは違った側面を持っている。ロックの正統性を考えるときに、誰もそのCDのマスターの正統性について考えるわけではないのである。ロック・バンドがライブ・パフォーマンスにおいて、自身の作品から外れた演奏をしても正統的なものとして扱われることもある。もちろん、Daviesは正統性という議論において、演奏の分類を扱っているが、同様に美的な経験としての正統性の議論もあることは指摘できる。
あと何回も書いているが、音楽作品の存在論と音楽の定義は別個の問題として扱うべきだ。そして後者の問題は、ここでは触れられなかった様々なアプローチが可能である。というか、自分の考えでは音楽の定義の問題は哲学的な議論によって明らかになるものではなく、自然科学と社会科学によって明らかにすべきことのように思える。その意味で音楽の哲学はもっと自然化、社会化されるべき側面を含んでいると思う。
以下、気になった書誌リスト

  • Kivy, P. (1993). The Fine Art of Repetition: Essays in the Philosophy of Music. New York:Cambridge University Press.
  • ――(1995). Authenticities: Philosophical Reflection on Musical Performance. Ithaca, NY: Cornell University Press.
  • Levinson, J. (1990). Music, Art, and Metaphysics. Ithaca, NY: Cornell University Press.
  • ――(1996). The Pleasure of Aesthetics. Ithaca, NY: Cornell University Press.
  • Walton, K. L. (1990). Mimesis as Make-Believe: On the Foundations of the Representational Arts. Cambridge, Mass.:Harvard University Press.
  • Davies, S. (2001). Musical Works and Performances: A Philosophical Exploration, Oxford: Clarendon Press.
  • Goehr, L. (1992). The Imaginary Museum of Musical Works: An Essay in the Philosophy of Music. Oxford:Clarendon Press.
  • Brown, L. B. (2000). ‘Phonography, Repetition and Spontaneity’. Philosophy and Literature 24:111-25.
  • Godlovith, S. (1998). Musical Performances: A Philosophical Exploration, Oxford: Clarendon Press.
  • Tohm, P. (1993). For an Audience: A Philosophy of Performing Arts. Philadelphia: Temple University Press.

*1:音符と訳すのはミスリーディングだけど、楽音って言うのもどうかと思う。訳しづらい…