さやわか『僕たちのゲーム史』

いろいろと立て込んでいて、読んだ本についてだけでもブログを更新するのがだんだん厳しくなってきた。来年からもうちょっとブログについて見直すことにするが、とりあえず今は低空飛行の状態で後追いでもほそぼそなんとか更新。
これ読了したのだいぶ前ですが。

僕たちのゲーム史 (星海社新書)
さやわか
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さやわかさんがゲームの本を書いているという話は聞いていた。新聞なんかでもゲームのレビュー書いていて「すげー(原稿料いくらなんだろう羨ましい…」などと思っていたりもした。
ちなみに僕はさやわかさんと直接お会いしたことがあり、多少ゲームの話もしたりした。その時はちょっとしか話してなかったのですが、さやわかさんがPlatineDispositifのヒトガタハッパを絶賛していたのを覚えいている。逆に僕はHellsinker.を布教していた(笑)。我ながら微笑ましい光景だ。
だからさやわかさんのゲームの本は期待していたのだ。でも、実のところそこまで期待してもいなかった。というのも「ゲーム史」などというものをマジで書こうとすればどんだけ大変になるのかということを理解していたからだ。多分、このかなりよく出来た本でも「これについての記述がおかしい」、「これについて触れてないのはどうなのか」というツッコミは入りまくりだろう。
ただこれ自体はある程度しかたない。サブカルチャーの中でも軽視されがちなゲームについては体系だった歴史記述なんてそこまで期待できない。でも、この本はかなりいい線を言っている。本当にかなりいい線だ。
その理由は一つは、冒頭で述べられる「ボタンを押すと反応するもの」というあまりにも素朴な定義(ちなみに冒頭はウェブで試し読みできる。http://ji-sedai.jp/works/book/publication/game/01/01.html)。もちろん、これはゲームの定義の決定版でもなんでもないのだが、少なくとも本書の歴史記述を非常に分かりやすいものとしている。ともすれば、めんどうな定義の議論だけでお話が終わってしまうような哲学畑の人間としてはこのプラグラマティックな判断は見習いたいところ。哲学の話をしたい場合は別として、普通は定義とは何かの役に立てるべきものであり、それ自体はそんなに重要ではないのだ。
第二の理由は、反対に本書の「あとがき」で述べられている部分だ。

 ゲームはまだ歴史が浅く、しかもデジタルでデータが残されているものが多いです。また昔を知る人たちも多いです。だから僕たちは、わりと容易に過去のゲームを手に入れてプレイできますし、現在の視点から様々に語ることもできます。しかし、今の僕たちが語れる内容は、そのゲームが初めてプレイされた当時のものとは、絶対に異なるはずなのです。
 だったら、当時の人たちが書いた文献にあたって、彼らがその時に考えていたことを確認していく本を作ればいいんじゃないだろうか。それは意味のあることだと思いました。

事実、本書はビデオゲームそれ自体以上に、ゲーム雑誌やクリエイターの書籍、企画書などがたくさん登場する。つまりこれはビデオゲーム雑誌とビデオゲームに関する書籍や文献から見た歴史本なのだ。あえてアカデミックな立場からこの方法論を説明すれば、メディアの言説分析ともいえなくない(アカデミックな仕事とジャーナリスティックな仕事のどちらが価値があるなんてことは言わないが、本書はアカデミックな立場からも十分に評価できる本だと、個人的には思う)。
この後者のアプローチには、音楽雑誌の分析で卒論を書いた立場からは非常に共感を持てる。本書の帯には「スーパーマリオはアクションゲームではなかった!」と幾分センセーショナルに書かれているが、何のことはない、これはただ宮本茂スーパーマリオブラザーズの企画書でそう書いてはいないというだけのことだ。しかしながら、当時の企画書やゲーム雑誌の言説を丁寧に分析するさやわかの議論は非常に納得がいくものであり、現在ではジャンプアクションの古典的名作(海外で言えば2Dプラットフォーマー)のスーパーマリオは、当時はアドベンチャーゲームであり、ロールプレイングゲームであったのだ。

細かな部分でツッコミを入れたり、それは違うんじゃないかなという部分は幾多とある。だが、それを指摘するのは今後に置いといて(書き出すときりがない...)、とりあえずこの本は現状、日本語で読めるビデオゲーム史としては最初に手に取るべき本であることは間違いない。あと単純にさやわかさんの文章は非常に読みやすい。プロのライターとして尊敬できるところである。

最後にこれは多少愚痴になる部分だが、最近ポピュラーカルチャーの本を読んでいるとアカデミシャンの著作に落胆することが多く、在野のライターさんやジャーナリストさんの本には感銘を受けることが多い。どちらにもそれぞれ良い部分があるはずなのであるが、現状はやはりポピュラー文化のアカデミックな研究の難しさを痛感している。自戒の意味もこめて、「ポピュラー文化の研究とは、すでに存在していた既存の文化の研究である」ということを再確認したい。