通勤時

週五ではたらくようになると音楽も通勤の時くらいしか聞けないので、何聞いているか書いておこう。ちなみに今はPSPでMP3の音源を聞いている。
Our Beloved Revolutionary Sweetheart
"Our Beloved Revolutionary Sweetheart" CAMPER VAN BEETHOVEN
80年代後半のアメリカカレッジロックのカリスマだったらしい、キャンパー・ヴァン・ベートーヴェンのセカンド?だったかな。なんか今ネットで検索するとオルタナカントリーというジャンルに入れられていたりして、確かにそうだなと、先見の目があったバンドなのかもしれない。しかし、ウィルコとかの90年代後半からの本当の意味でのオルタナカントリーに比べれば非常に素人臭いというか、カレッジっぽいというか、別に特に意識したわけもなく、ブルースやカントリーみたいなこともやってみましたみたいな感じが彼らの味だと思う。
こっそり今度でるサブライムのトリビュートに参加してたりする。
http://www.cdjournal.com/main/news/news.php?nno=8903
Look at All the Love We Found: A Tribute to Sublime
サブライムも大好きな俺としてはマストですな、フィッシュボーンとかロスロボスとか最高な面子がそろってます。マスダさんとこに書いてあったけど、オルタナって最近誰も言わなくなったなーっていう面子ですが…これも90年代ノットデッド系なんすかね、菊池先生。

批評の戦域

http://d.hatena.ne.jp/shinimai/20050519#p1
でした話の続きですが
http://replica-love.jp/sayonana/archives/000513.html
まだこの話題が終わってないことに多少驚きつつ、再度口をはさみいれたり。
しかし、なんでみんな批評ってものをクリエーターに及ぼす影響の良し悪しで議論するかなーってかんじです。ここで言っている「酷評」ってもんを肯定する側も否定する側も、それがなんらかの形で「クリエイター」(この言葉についてもなんでアーティストって言葉じゃないのかがわからん)に影響を及ぼすことを自明としているのが謎過ぎる。
そりゃネットの登場でどこかの名無しさんのいいかげんな文章を「クリエイター」とやらが読む可能性は増えたのでしょうが、以前だって雑誌とか読んだりすれば文章のクオリティーは違えど似たようなことはあったはずだし、前も書いたとおり作者が傷つくかどうかは酷評なのかどうなのかに関わる問題ではない。批評するものが真剣に書いた文章に傷つき、適当に書いた文章に勇気付けられる「クリエイター」もいてもおかしくないじゃないか。だって俺らも「クリエイター」の本気の作品に失望して、適当に作った作品に感銘を受けることもあるんだし。
実験さんも津田さんも、なんでここでいう「酷評」みたいもんをその文章の拙さゆえに批判するのではなく、「クリエイター」の影響とやらで批判するのかがわからない。意地悪な邪推をすれば、二人とも自分では「酷評」みたいな無根拠でいい加減な文章も書いたりもしたいのだけど、ある種の「酷評」についてはそれを認めたくないという捩れた感じが伺える。そのために「クリエイター」への影響という観点を持ち出して、「クリエイターのやる気を削ぐような文はけしからん」と言っているようにさえ見える。件の「酷評」がイカんのはそれが「クリエイターのやる気を削ぐ」のではなく、根拠がなく無価値なのであって、たとえ誉めていたとしてもそれが根拠がなく自分の趣味を吐露しただけのものなら同じく無価値である。だから批評にあるべき線引きは、それが作者に及ぼす影響ではなく、その文章に内在する価値であるはずだ。
それから津田さんは議論の中で自らがライターの立場ではなく、消費者の立場にいると主張しているが、「酷評」で傷つく「クリエイター」を実際に見てきたように語るのは一般の消費者の立場ではなく、やはりライターとして「クリエイター」の側にいる人としての視点じゃないんだろうか。その現場みたいなモンを持ち出されると「一般の消費者」は反論しづらいのにも関わらず、自らも消費者の立場というのはあまり納得がいかない。以前もコメントで書いたが、津田さんはやはりライターとしてAMAZONとかのファッキンな批評まがいの文章たちを断罪していくのが筋ではないだろうか。

追記:
そもそもAMAZONのレビューなんかに絡んでこの議論のきっかけを作った菊地ナルヨシが一番悪いんだ(笑)菊地だ!(笑)ってことは置いといてチャーリーさんのこれも参照
http://www.asvattha.net/soul/index.php?itemid=424#more