久しぶりに本を読んだものなど

いろいろ忙しくて読書ぜんぜんしてなかった。翻訳の仕事、研究の論文、書評のためでちょろっと読むことはあっても、ほとんど本を読まない生活を何ヶ月か過ごした。多分、こんなの人生初だった。
まあ読書をしなくても、ネットやゲームや映画やアニメを消費することで、人生の無駄などしていない自身はあるけど、やっぱり本の良さもあると、最近、読書して再確認しておる。なんというか思考のペースが穏やかというか、ちゃんと考えられるのが本の良さだ。
といっても読んだのエンタメ小説や新書なんだけど。あぁじっくりと哲学の本とか読める生活したいなぁ、本当に。
機龍警察(ハヤカワ文庫JA)
月村 了衛
4150309930

機龍警察 自爆条項 (上) (ハヤカワ文庫JA)
月村 了衛
4150310750

機龍警察 自爆条項 (下) (ハヤカワ文庫JA)
月村 了衛
4150310769

機龍警察 暗黒市場 (ミステリ・ワールド)
月村 了衛
4152093218

がががと一気に三巻分!
何を隠そう私はアニメのNoirの大ファンなのだが、その良さをあまりうまく説明できなかった。ともあれ、あのキリスト教原理主義マフィア百合ガンアクションというすごいキメラのようなストーリーを作った月村了衛にはずっと興味があったわけだ。だからこの機龍警察はずっと気になっていた。
そして、なぜだかTwitterの一部では既にこの機龍警察の人気がすごくて結果読んで、それなりにハマったわけ。確かにこれはNoirの雰囲気ありますよ。百合とかBLとかそういった側面ばかり強調されがちですが、因縁のあるバディもの、ヘテロセクシャリズムを乗り越えた先にあるプロ意識、ガンアクションシーンだけはやたら細かい描写など、ある意味、期待していた月村了衛の世界がそこにあった!
部分的というか、全体的にB級っぽさは否めないのですが、それも味のうちだと思います。特に最初の巻は小説を書き慣れていない感じもあり、戯画的にすら思える警察組織の軋轢具合が表現された居酒屋のシーンは大爆笑してしまった。
だがそんなB級感は話が進むにつれて消えて(慣れた?)第二作の「自爆条項」のアイルランド紛争史を元にしたライザ・ガードナーの人生や、第三作の「暗黒市場」のロシアマフィアと政府の堕落の中で翻弄されるユーリ・オズノフの物語はエンタメ小説としてはとても良かったです。正直、ハリウッド映画とかにしてもそこそこ戦えるストーリーではないかと思う。
あとSF部分(?)とでも言うべき機龍警察の龍騎兵という機甲兵装ですが、謎テクノロジーが多くてやはりB級感があるものの、銃器のセレクトや長さなどに関してはしっかり考証している感もあって楽しいです。個人的に「自爆条項」でのライザ機バンシーのスパスの8丁ほど背中に抱えて二丁拳銃で戦うなど並の発想を超えたケレン味です。ぜひとも映像化してほしい。
続編が読みたいですね。あとNoirももっと再評価されて欲しいですね。

口は災いの元だ。
アニメ『氷菓』の第十一回を見て、米澤穂信の書きたい部分の核心に触れて、ちょっと思ったことを言ったら、それをブログに書くべきだと言われた。本当ならばこのようなテマティックな物言いはしたくないし、何よりも私は原作を読んでない。つまりこれから書くのはアニメの批評でもなく、小説の批評でもない。少なくとも憶測、もっと悪く邪推のレベルに等しいわけだ。
第十一話「愚者のエンドロール」の主題は明らかに、米澤穂信のデビュー作をもとにした5話までのストーリー、つまり「氷菓」とオーバラップする。要するに、作者の言いたいことはこれだ。
「どんな文章にもそれを書かざるをえないそれ相応の作者の事情がある。たとえ、それが凡庸な文章であっても。」
氷菓」のエピソードも「愚者のエンドロール」も、多数の人たちの意見や主張を守るために個人が犠牲となる。主人公たちが明らかにするのは、その事件であるというよりも、その犠牲となった個人の心だ。すごくナイーブな意味で心や心情としかいいようがない。もちろん、推理の過程において主人公たちは「浅はか」にも事件の真相自体も暴いてしまう。しかし、その先の作者の心に踏み込んだ瞬間、文章(ここは「テクスト」といったドライな言葉や「エクリチュール」などのような高踏な物言いより「文章」がしっくりくる)のもっているプライベートな性格に気づき、非常に後味の悪い気分になる。しかも、その文章はダジャレであったり、陳腐なミステリーであったり、凡庸極まりない。というか、この「凡庸さ」こそが、推理や詮索(というか20世紀的な文学批評)の「土足で踏み込む感」を強く演出している。一方で、主人公たちが常に作者の本心を突き止めようとする欲求の滑稽さを浮き上がらせる。
米澤穂信の小説は『さよなら妖精』しか読んだことがなかった。もちろん、『さよなら妖精』も素晴らしい小説であり、読みようによってはよりシリアスな物語であるが、どちらかといえば「戦争」という大きなテーマを扱うせいで米澤穂信の意識の高さに気づけなかった。『氷菓』はどちらかといえば面白みに欠けたり、地味な作品とされているようだが、『愚者のエンドロール』と重ねて読めば、おそらくより切実な作者の気持ちが表現されているのだろうと思ったのである。愚かにもアニメを見て。
重ね重ね書くようにこの文章は、アニメの批評でもなく、小説の批評でもない。作画や絵コンテ、背景や声優の演技に関して何ら参照していないし、小説にいたっては読んですらないのだ。ただ米澤穂信の原作を読むには十分なきっかけを持ったという感想であり、本当は書きたくなかったけど、つい第十一話を見て人に思ったことを話した結果として、書かざるをえない事情を得たのだ。これを書いている私はまったく折木奉太郎と同じ立場にいるわけで、それ相応に苦々しいんだ、まったく。
照れ隠しのために常日頃しているようにアフィリエイトのリンクも貼っておく。
氷菓 (角川文庫)
米澤 穂信
4044271011

愚者のエンドロール (角川文庫)
米澤 穂信 高野 音彦
404427102X

講義した:聴覚文化論の射程(2012年度)横浜国立大学

横国の中川さんから一般教養向けのオムニバス授業を一回分頼まれまして、無事に(?)終わりましたので報告。

いろいろと忙しくて、満足のいく準備はとれなかったのですけど、自分がやっている研究をある程度分かりやすく、事例をいれて説明するみたいな感じになりました。後半の事例がまあなんというか暴走気味(笑)なんですが、中川さんには何やってもいいよって言われたから以前から興味を抱いていたデス声について扱いました。本当はロックのサブジャンルとかギターの音とか細かい話をいくらでもしたかったのですが、時間の関係上、デス声に限ったというわけです。

学生はどう思ったかわかりませんが(笑)、30分くらいで10曲くらいのデス声の曲、まあ必然的にハードコア/グラインド系になるんですが再生しましたが、中川さん曰く「どれも一緒に聞こえる…」とのこと。まあそうですよね(笑)。

ただ声の探求自体は21世紀に入ってからのロックでもかなり幅広いジャンルでなされているので、無視できないなと思います。細かい話ですが、メタル/ハードコア経由のデス声とインディー/エモ(スクリーモ)経由のシャウトというかスクリーモは分けて考えるべきだと感じましたが、とりあえずは無視しました。

本当は動画で見せたいやつもあったけど、動画みせるとヤバイのも多かったので音源だけでよかった気がしますね。しかしプレイリストを見てもらえれば、ちょっとやりすぎた感じでもあります。

なお授業についてはこのブログにも書いてあります。
https://sites.google.com/site/nakagawa1503/class-lectures/the-scope-of-auditory-cultural-studies-2012

書評を書いた。

JASPMでもお世話になっている井手口彰典さんのこの本について、以下の『ミュージックマガジン』2012年5月号で書評を書きました。
同人音楽とその周辺: 新世紀の振源をめぐる技術・制度・概念
井手口 彰典
4787273175

ちなみに表紙は有馬啓太郎の絵というナイスセンスです!
ちなみに私の書評は何の関係もないですがマガジンは小沢健二の特集です。
MUSIC MAGAZINE (ミュージックマガジン) 2012年 05月号 [雑誌]
B007R5TV10

井手口さんの前作についてはここで書きましたが(http://d.hatena.ne.jp/shinimai/20100617/p1)、ゼロ年代後半から秋葉原の同人ショップや同人音楽のイベントに足を運んでいる身としては「同人音楽の初の学術書」となるこの本をとても期待して読みました。残念ながら前作が傑作すぎたのか、どうも同人音楽の魅力や他の音楽文化との違いをうまく表せていないように思えました(むしろ、最終章で示唆されるのが「同人音楽が他の音楽とは違う」という「同人音楽神話」の脱神話化なので、これは井手口さんの意図するところかもしれません)。『ミュージックマガジン』の書評は800字足らずなので、無駄に偉そう、かつ断定的な書評に思える気もして、ここで少しだけコメントしたいと思います。
総じて日本のポピュラー音楽研究の蓄積をうまく生かして、各論の内容も現代的なので大学のポピュラー音楽研究の授業なので扱うには良い本だと思います。前半は同人音楽の概要や概念、文化環境、批評のあり方などを描き、後半は初音ミクニコニコ動画、アマチュア音楽という「その周辺」について考察するというのはタイトル通り(最初は「その周辺」とかなんか投げやりなタイトルだと思ってしまいました、すみません。。。)。
後半部の各論はそれぞれ面白いのですが、残念ながら同人音楽とのつながりちょっと希薄なのが気になります。前半部は概要としては良かったですが、同人音楽における二次創作のあり方などはあまり語られていないように感じました。とくに「ジャンル」に関する第三章では、同人音楽を既存の音楽ジャンルなどとの比較において論じますが、いわゆる「アレンジ系同人音楽」における元ネタとしての「ジャンル」の話などはほとんどないのが不思議に思えます。確かに井手口さんが中心的に調査をした同人音楽イベントM3などは、そういうジャンルにこだわらない表現の場としての性格が大きいとは思いますが、今の同人音楽は「東方」などのコンテンツを中心とした二次創作という面を語らないわけにいかないように思えます。
さらに『ミュージックマガジン』の書評でも書きましたが、最終章で同人音楽を以下のようにまとめるのが甚だ疑問であります。

だが、この「妨げられない」というポイントは、単にM3という特定イベントの理念や制度のなかに息づいているだけではなく、同人音楽文化全般に通底するキーワードとして捉え返すことができるものでもあるようだ。たとえば我々は第2章で同人音楽を「環境」から考察した際、主要な四つの要因(同人イベント、DTM、録音可能なCD、インターネット)がいずれも「排他性のなさ」によって特徴付けられるものであることを見た。(・・・)対照的に、従来の音楽活動がなにがしかの制約を受けていた、というのはある程度まで事実なのだろう。(・・・)そうした状況に比べれば、同人音楽がもろもろの制約に器用にかいくぐるものであるように見えるのは確かだ。
(253)

我々はここまでの議論を通じて、「妨げられない」実践としての同人音楽がもつ可能性を、成長や個性をめぐる競争に駆り立てられない点、あるいはその帰結としてやめたいときにやめることができる点に見いだした。
(266)

確かに「プロムナード」と題されたM3の立役者、相川・寺西両氏のインタビューからは、音を使った自由な表現の場というM3のポリシーははっきり伝わってきます。しかしながら、このポリシーは同人音楽全体を通底するとは思えません。個人的には同人ショップや同人イベントには、ある種の近寄りがたさがあり、その(ある意味での)「閉鎖性」こそが同人音楽の特殊性や魅力を作っているようにも感じます。また「インターネット」が「排他性のなさ」として特徴付けられていますが、都内のアマチュア/インディーバンドの調査をしている身としては、ミュージシャンたちの間にある「デジタルデバイド」はかなり大きいように思えます。
総じて、調査の中心となったM3の考え方などに論点が引っ張られすぎているように思えるところがあります。逆に言えば、M3の立役者たちのインタビューは本書の最大の魅力であるとともに、彼らが現在の同人音楽に多少なりとも距離を置いていることが分かったのが大きな収穫でした。特に寺西氏のインタビューは、彼がかなり明確なビジョンのもとにM3というイベントを築いてきたことがわかり非常に面白かったです。

寺西氏
ただ、先に言ったようなサークルの数的な増加も確かにあるんですか、1998年のM3の立ち上げに際しては、音系同人活動を「理論武装」する、という目的もありました。ちょうどコミケットが同人誌に対してその役割を担ってきたように、です。コミケットという場所は、ちゃんと秩序があるし決して無法地帯ではないんだけど、それでもスレスレの表現がグレーゾーンとして生き残れる場所であると、僕の目には映っていました。でも、組織としてある程度まとまっていないと、そうしたグレーゾーン上のサークルは各個破壊されてしまうわけです。
(159)

理論武装」という言葉やその後のインタビューで出てくるフランスのパロディー法やプラーゲ旋風JASRACの話題から察せるとおり、寺西氏のビジョンやポリシーは非常に志が高く、感動的ですらありました。
他にも様々な論点があり、ここでは論じ切れないです。よかったら井手口さんの著書、または『ミュージック・マガジン』の私の書評などを読んでいただけたらとおもいます。

俺が関わっているぜ的な勉強会リスト

今年度も学部生のTAを受け持つことになって、学生さんたちの先人として「研究とはなんぞ」、「大学院とはひどいところです」的な話をしたのであるが、そこで「人文系の研究は基本的に孤独であり、学問的にもプライベート的にもヤバイ。そこで救いになるのが勉強会だったりする」的な話をしました。実際にそうです。勉強会はただ研究のために役に立つというわけではなく、友人づくり、漫画の貸し借り、大学の事務手続き、学会での振る舞いなど、いろんな意味で役に立つ大学院生活のライフラインです。いやマジで。
そこで大学院進学を少しでも考えている人に、既存の勉強会を教えてあげようと思ったところ、いいデータベースがあるわけでもないので、自分で知っている範囲で公開しようと思ってます。いちおう主催の方に許可を取ってからにするので、また追記するかもしれません。
本当は勉強会のためのウェブポータルサービスなどあったら良いのでしょうが、現状ありません。誰か作ってよ、まじで。はてなさんとかよ!

以下、興味がある人が連絡できるように、会の名前と主催者の連絡先、会の雰囲気をまとめてみますた。なにか問題があれば言ってください。

  • 現代美学研究会
    • 主催:私(@shinimai)aka.shinimaiじいめいる, 森( @conchucame)morinorihideほっとめいる
    • 会を立ち上げたのは私でありましたが、実質、森君が積極的にやってくれています。基本的にはいわゆる「分析美学」、つまり英語圏の現在の美学についての論文などを読む会になっています。おそらく日本で分析美学や英語圏の美学について勉強するには一番素晴らしい人材が集まっているという自負があります。というか他にないねん。参加者は大学院生や学部生、プログラマなど多様です。
  • ロックの美学研究会
    • 主催:私(@shinimai)aka.shinimaiじいめいる
    • これは完全に私が私の都合で今のところやっている勉強会です。Theodore GracykのRhythm and Noise: An Aesthetics of Rockという本を読んでいます。名前の通りロックの美学です。音楽に関心がある様々な人が参加者です。
  • 西洋音楽美学研究会
    • 主催:柴田 shibata_67kほっとめいる
    • これは私は参加していないですが、私の研究室で行われている、主にクラシックの音楽学、音楽美学の勉強会です。参加者は研究室の内部の人中心です。
  • ゆるふわ(モテ)形而上学研究会
    • 主催:高田 nightlyあっとat-akada.org
    • ノリで付けた名前が結果として定着した悪い例ですね(笑)。私も初期から参加している英語圏の現代の形而上学についての論文などを読む勉強会です。関わっている人は多岐に及び、哲学界隈の学会では妙な存在感を最近、放っています(笑)。基本的には形而上学の文献を読むのですが、参加者は形而上学を学ぶプログラマ(笑)、メレオロジカルニヒリストのプログラマ(笑)、優秀な言語学者、某法学者(笑)などよく分からない優秀なメンツです。「ゆるふわ(モテ)形而上学は現代のウィーン学派なんだぉ」私は最近あまり参加出来ていないですが。
  • ゲームスタディー
    • 主催:松永(@zmzizm) matsunagashinjiじいめいる
    • 昨今のゲーム業界の現状を見て、私が人文系ビデオゲーム研究の発展のために松永くんをせっついて作らせた勉強会。人文系のゲーム研究者が集まっている勉強会はおそらくここだけ。今はGrant Tavinorという人のThe Art of Videogames (New Directions in Aesthetics)を読んでいる。分析美学系のビデオゲーム研究初の本だ。

主催者に許可とれ次第、追記します。
というか、みんなも勉強会晒ししようぜ!

ナード・サマー・オブ・ラブとしてのシュタインズゲート

このカテゴリでエントリを書くのは久しぶりだが、そもそもこの日記自体も久しぶり(最近はこっちで書いているhttp://shinimai.hatenablog.com/)。というかこのカテゴリを俺の妄想でしかないので間にウケないように。

「ナード・サマー・オブ・ラブ」とは俺がことあることに提唱してきたタームであるが、本当のところいわゆる「特に意味はない」わけであるが、ゼロ年代の日本のユースカルチャーがドメスティックになっていた現状をそれなりに照らしているといえば聞こえがいいか。まあ個人的にこの文化のドメスティック・ターン自体には複雑な感想を抱いている私であるが、そしてそもそもお前が「ナード」とか言うなとかニワカCINEとか言われても仕方ない立場だが、ゼロ年代末のいろいろな日本のユースカルチャーをそう呼ぼうがいいだろうと思う。

秋葉原という土地が良い意味でも悪い意味でも象徴になったのは間違いなく、ネット発のレーベルが出て、秋葉原のクラブでアニソンで踊る人間が増え、ミクが海外でも天使だとか言われたとか、そんなの全部ウソくさくも思えるけど、末代の若者には「いやゼロ年代末はたしかにナード・サマー・オブ・ラブだったんだよ」とか平気で嘘を言ってみたいのである*1。そしてその象徴の1つとして、09年リリースで10年が舞台のシュタインズゲートがあり、厨二病がヒーローとして輝く瞬間があり、現実にラジ館に人工衛星は表れたんだよと、ホラを吹きたいのだよ。そもそもアニメさえリアルタイムで見ていない自分がさも世紀の瞬間を目の当たりにしたかのように、「ああたしかにナード・サマー・オブ・ラブはあった」とつぶやき、その頃には白衣がお洒落で語尾には必ず訳のわからない合言葉を話していたとか(さすがにそれはねーえよ)。

まあ本家のサマー・オブ・ラブとかも実際のところ、後からの伝説化があってこそなんだろうから、こういう妄想ってそれなりに素敵なもんじゃないのかな。

*1:もちろんその文化を支えた多くの人が地方在住者であることを忘れてはいけない。ただそれはウッドストックにはロック世代の極僅かしか参加できなかっただけなのかもしれない。

迅速な対応に対するさらなる対応。
もとの書評とはいちおう切り離した議論として、すこしばかり意見をさしはさませてもらう。

ああ、最後に、一応もしかしたら万が一、ということで山形氏をフォローしておくと、

山形氏は

「物理的に判別できないものは、美的性質も同じになる」と考えているのかもしれません。

これへの応答は、その「判別できない」をどう捉えるかによって二通りにわかれます。

(1)「カテゴリーが違うけれども、見た目に差がない」という風に捉えるならば、もう上記の議論でその立場は退けられます。この立場にまだ固執するんなら、もうすこししっかりした議論が必要になります。かなり苦しい立場ですが、まぁやりたい人は頑張ってください。。

(2)「カテゴリー的にも判別不可能」というのであれば、美的性質は同じになりえますが、その場合、「それがプラスチックの木<である>かぎり」という西村の限定の外に出る話なので、西村への反論にはなりません。その場合、もう「プラスチックの木」とは見てないでしょ。
http://d.hatena.ne.jp/conchucame/20120120

「物理的に判別できないものは、美的性質も同じになる」という主張は、もう少し洗練された言い方をすると「美的性質は物理的性質にスーパーヴィーンする」ということになる。スーパーヴィーニエンスについては適当に調べてもらうとして、あとスーパーヴィーニエンスをどう解釈するかに関してもとりあえず、置いておく。
なんにせよ「美的性質は物理的性質にスーパーヴィーンする」と言いなおされた場合、上記の1、2の応答がどうなるかチェックしよう。
1の場合、「もう上記の議論でその立場は退けられます」と言っているが、これがどの議論か実はブログではあまりよくわからない(オレが悪いのかもしれないが)。おそらく当該本のこの部分「そもそもプラスチックの木は、それがプラスチックの木<である>かぎり、たとえ完全なレプリカだとしてもその非美的で形式的、感覚的な面から見ても自然の木とはまるで違っており、それがひとをぎょっとさせ狼狽させるのである」(p.172)ということから、カテゴリーが異なる対象に対して、「非美的で形式的、感覚的な面から見ても」見た目が違うという議論を指しているのであろう。
しかしそうだとすると、これは法外な主張といえる。なぜならば「完全なレプリカ」という表現は普通、「非美的で形式的、感覚的な面から見て」見た目が同じであることを含意すべきであるからだ。それ以外に「完全なレプリカ」を解釈する方法はないように思える。もしも、いや本当にもしもですが、「完全なレプリカ」が「物理的性質において同一」であることを意味すれば、これはさらに法外な主張になっているだろう。それは美的性質の物理的性質へのスーパーヴィーンを認めないばかりか、非美的性質、つまり単なる三角や四角(に見える)という形や赤や白といった色などの感覚的な性質が物理的性質にスーパーヴィーンしないということになる。もちろんこういう立場はないわけではない(サピア=ウォーフの仮説とか)。でも西村の主張は、本当にそんな主張をしているのだろうか?かなり疑問である。
2に関して。そもそもこの「カテゴリー的にも判別不可能」という自体をどう解釈するかがちょっと文意的に読めない。もしも当該対象となるものが、どういうカテゴリーに属するのかが、物理的には判別できないという意味であるならば、カテゴリーとは当然、非物理的なものによって決定されているはずだ。当該ブログで「「自然の樹木」と「プラスチックの人工の木」では、そこに備わる歴史がまったく異なる」ということから推論して、対象の来歴に関することは物理的組成では判別できないということを認めるとしよう。(これはこれでじつは突っ込める問題であるかもしれない。多くの対象の来歴は物理的組成の分析で判別可能であるかもしれない。さらにはいわゆる関係的性質もまた物理的だとも言い得るかもしれない。)この場合、美的性質の物理的性質のスーパーヴィーニエンスを認めている場合、当然、美的性質は同じになるだろう。だがやはり西村の「非美的で形式的、感覚的な面から見ても」見た目がことなるという主張は、感覚的な性質の物理的性質へのスーパーヴィーンを認めないという上述の法外な主張になるだろう。
以上から「美的性質は物理的性質にスーパーヴィーンする」ということがたとえ成り立たなくても、西村の主張していることは1や2では対応できない、というか美的性質以前の問題の「非美的で形式的、感覚的な面から見て」という表現がかなり問題含みだと思う。要は美的性質が来歴や文脈、またはカテゴリーといった単純な意味での物理的性質以外によって左右されることは認めても、普通の感覚的性質の物理的性質へのスーパーヴィーニエンスを認めないのはちょっと大胆すぎる主張だと思う。